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私の息子、岩城 秀年は学生時代はバスケットをやっていて、どちらかというと硬派でした。それに車が大変好きで、自分でいろんな部品を買ってきては、取り付けて楽しんでいたようです。女の子よりもまず車、といった感じでした。しかし,そういった車にかける費用も全部自分でまかなっていました。とにかく、自分のことは自分でやる、という自立心の高かった子だと思います。
その秀年が「事故にあった」との知らせを受けたのは、1989年の7月15日の早朝のことでした。息子はその前日の夕方、高校時代の友だちと車で出かけていました。出かける前に、「今日の晩ご飯はとてもうまかった」、とそれまでにない笑顔で言ってくれたのが、息子の元気な時の最後の言葉となりました。明けて翌日の15日の朝、主人はゴルフがあったので朝早くに家を出ました。しばらくして警察からがあり、「お宅の息子さんが事故で病院に搬送された。早く病院まで来て欲しい」、との知らせを受けたのでした。近くの友人に車に乗せてもらい、息子が運びこまれた大学病院までいきました。
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岩城 秀年さん |
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岩城 満代さん |
病院についてからも、なぜか私はすごく冷静でした。救急医は息子の容態について「100パーセント助からないだろう」と答え、そしてCTを見せて「このように脳の右側にダメージを受け、それが左側にも広がっていっているから、ほとんど脳死の状態で、回復は見込めない」とも言われました。
ICUにいた息子の顔は魚のマンボーように腫れあがり、頭に包帯がまかれて、体のうえにはバスタオルだけがかけられていました。そこにあったのは、人間というよりも、まるで何か得体の知れない物体のようなものでした。すぐには、それが自分の息子だとは分からなかったのです。そして再び先生が、「もう100パーセント助かる見込みはないので、ご親戚やお友達をすぐに呼んでください」と言いました。それから、仕事で遠くにいる本人の兄にも連絡をつけ、急いで戻ってきた主人ともども、その日はみんなで病院に泊まり込みました。
あくる日の朝、主治医が「手の施しようがありません。どうやってもダメだからあきらめてください」といったのですが、主人が、「電気ショックでも何をやってもいいから助けて欲しい」と先生にしがみつくようにしてお願いしました。しかし、やはり先生は「もう手術をしてもムダだ。本人が苦しむだけだ」と言うのを、それでも主人が「命だけは何としても助けてください。イヤ、もしだめだとしても、とにかく手術だけはしてください。そうすればあきらめがつく」と再三にわたってお願いしました。そこでようやく開頭手術を行うことになりました。でも執刀医には「仮に手術が成功しても、よくて植物状態で1〜2年、生きればいい方ではないか」と言われました。そして手術が始まりました。私たちは手術室の前の椅子に座って待ちました。一体どれ位たったのでしょう。確か7、8時間だったと思います。すごく長かったようであり、あるいは短くも感じました。ともかく、手術が終わって手術室の扉が開き、幸いなことに息子は白い布をかぶらずに出てきました。息子は命を取りとめたのです。
さて、手術を終えた息子は、ICUの中でも最重度の人が寝かされる、看護婦詰め所の真ん前のベッドに寝かされていました。一日4回の面会時間があり、そのたびに私たちは面会して、息子に声をかけたり体をさすったり、少しでも意識の回復の助けになると考えられることを試しました。しかし、その面会も大学の教授の回診があると中止になってしまいました。
ICUにいた間、定期的な医師からの説明はありませんでした。「回復の見込みはないから、いちいち説明する必要もない」、といった感じでした。たった一度、主治医の他に医師が来たのは、1ヶ月近くたってから、整形外科医がきただけです。それもほんの形だけの診察でした。おそらく、それだけ見込みがない患者と思われていたのかもしれません。ICUの印象を一言で言うと、看護婦さんがとても冷たく家族に接していた、ということでした。しかしそれも後から考えれば、毎日、人の生き死にに接しているのだから、あのように事務的になるのも無理のないことかもしれない、と思うようにしています。 そのまま2ヶ月半、ICUで過ごした後、今度は看護婦長から「頭のケガで死ぬ心配はなくなったので、他にも転院して欲しい」と言われました。そこの病院から紹介されで、大学病院の教授が非常勤で診察をしている、ある病院に転院しました。
そこは自宅からも比較的近かかったのですが、それまでの大学病院から一般の病院に転院して、その病院の施設と看護方法のあまりもの落差に驚きました。病室には外からのほこりがいくらでも入ってくるような状態でしたし、術後の傷跡の消毒も、これでええんかいな、と思うほど、いい加減なように見えました。ただ、こうした衛生面を除いて、そこの病院自体は始めの大学病院に比べ、かえって良かったと、時間が経つにつれて感じ始めました。そこの病院には、お世辞にも最新の医療機器があったとはいえないのですが、医師をはじめとする医療スタッフが大変優しく温かい人ばかりで、いわゆる家庭的な雰囲気だったのです。特に、PT(理学療法)の先生に親切にしてもらいました。その先生には理学療法だけではなく、作業療法とか言語療法に関するアドバイスもしてくれましたし、その後、その先生には今にいたるまで何かあるたびに相談しています。
ところがです。許せないのは、大学病院から非常勤でそこの病院にやってくる大学教授の医師なんです。その医師は、息子の意識がまだはっきりしない時に、息子をみるなり、「あー、こんなんもうアカンで。もう先はないで」と私たちや他の患者さんがいる前で大声言ったり、あるいは、息子の手が少し動き始めたことをPTの先生が報告した時にも、「そんなもん、手がそのぐらいちょっと動いただけで、生きていくうえで、一体何の役に立つんや」といったことは、今思い出しても腹立たしいし、悲しくなります。その医師の言葉に傷ついた患者さんは他にもたくさんいたようです。中には文句を言う患者さんもいたようですが、その先生は、「そういうときフォローするのが看護婦の役目だ」と言ってのけ、全然態度を改めようとしませんでした。
今でも、私はこの医師を許すことができません。だから、私はいくら技術があったとしても、医師はその言葉に気を付けなければいけないと思うようになりました。治る見込みがないのに治ると気休めを言う必要はないでしょうが、「あんたも大変やけどがんばりや」ぐらいの言葉をかけてもいいのではないでしょうか。その世界では名医と言われていても、患者の気持ちを省みない医師が少なくない気がします。心の底では、患者をモノのようにしか思っていないのではないでしょうか。
息子の事故から10数年たちました。最初の頃は「何とか以前のように歩けるようになって欲しい」というふうに、どちらかというと今まで身体のリハばかりに気が向いていました。しかし、この10年をメドに知的リハにも力を入れようと思い始めています。なぜなら仮に、本人が体のリハビリを一生懸命にやったとしても、全く以前のように歩けるようになるわけではないと思うからです。それよりも、いかにすれば、ひとりで生きていけるか、そのための訓練をすることが大事だと思っています。
しかし、今ももちろん四苦八苦していますが、それよりももっと心配なのは、私たちがいなくなってからの、息子の行く末です。たまに診察にいく主治医には、半分冗談交じりで、でもかなり本気で「この子より5分長生きさせてください」と言っています。しかし現実にはおそらく親である私たちの方が先に死ぬのですから、それまでに何とか息子が一人で暮らしていけるような状態にまでもっていきたいと思っています。
次に、当事者の立場から脳死臓器移植について私の意見は、原則として反対です。なぜなら「脳死確実」と医師から言われた息子が、ここまで回復したのが何よりの証拠ですから。それに医療は密室の中の行為ですから、どうしても臓器が必要な場合、そういう圧力が救急医に少しでもかけられていたら、ドナーの命を何が何でも助けようという気が萎える可能性も否定できないと思うんです。でも、もし、いま我が子がどこか臓器の病気を患っていて、そして「他人からの臓器を提供されれば助かる」、ということを医師から言われれば、「絶対反対」とは言えない気持ちが正直あります。
ただ、これまでの移植の現状をみておりますと、「移植を受けた人が本当に幸せなのか?」 という気もします。脳死に瀕した人が簡単に捨てられるように、移植を受けた人が、もう一度、臓器移植をしても助かる見込みがなくなった時、医者に「こんなんアカン」といって捨てられるのではないでしょうか? 結局、“脳死・臓器移植は提供する側も提供される側も、不幸にしてしまう”、そんな気がしてなりません。
頭部外傷や病気による後遺症を持つ若者と家族の会 事務局は
〒631−0033 奈良市あやめ池南1−1−14 三青園4階 п彦ax 0742−51−7080
毎週土曜日、午後2時〜午後5時に電話相談を受けている。
これ以外の時間帯は、Faxによる連絡をお願いしているそうです。
頭部外傷や病気による後遺症を持つ 若者と家族の会・編
毎日、全国で起こる交通事故、不慮の脳卒中・・・。 頭部に重傷を負い、奇跡的に生還をはたした若者らは、 寝たきり・体幹マヒ・記憶障害など多くの苦しみと闘いながら、 ゆっくりと、だが確実に、生きる喜びを獲得しようとしている・・・(初版1999/10/23)。
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| 内容 |
執筆者 |
| 第一章 若者と家族の会のあゆみ |
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| 「若者と家族の会」四年間の歩み |
桑山 雄次 |
| 翔け「若者と家族の会」 |
山口 研一郎 |
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| 第二章 本人の手記 |
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| 心の叫び |
26歳・男性 |
| 障害を支える地域づくりをめざす |
38歳・男性 |
| やってしまいました |
23歳・男性 |
| 新しい自分を、あるがままに |
58歳・女性 |
| 誰にも見せたことのない、もう一人の自分がここにいる |
20歳・男性 |
| 誕生日を迎えて |
27歳・男性 |
| 僕の唄 |
29歳・男性 |
| この会で社会を動かせたらなーとの夢っ |
26歳・男性 |
| 過去、現在、そして未来 |
22歳・女性 |
| 過去に起こったこと |
36歳・女性 |
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| 第三章 家族の手記 |
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| 家族、手をとりあって |
母親・56歳、息子・31歳 |
| ともに生きよう |
妻・55歳、夫・56歳 |
| つなぎとめた命 |
母親・54歳、息子・28歳 |
| 母の気持ちから |
母親・44歳、息子・25歳 |
| たくさんの善意にささえられて |
母親・59歳、息子・28歳 |
| 息子と歩んで |
母親・59歳、息子・28歳 |
| 新たな出会いを糧に |
母親・57歳、娘・29歳 |
| 将来に大きな不安 |
父親・60歳、息子・27歳 |
| 明日を信じて |
母親・57歳、息子・30歳 |
| 交通事故以来のこと |
父親・62歳、息子・23歳 |
| この一年数ヶ月 |
母親・41歳、息子・19歳 |
| 見えない障害・見えない未来 |
妻・33歳、夫36歳 |
| 無年金障害者訴訟の支援を |
父親・57歳、息子・29歳 |
| 障害者手帳ももらえず |
母親・65歳、息子36歳 |
| あるがままを受け入れよう |
母親・61歳、息子・33歳 |
| いたずら電話だったら、よかったのに |
母親・48歳、息子22歳 |
| 山吹の花 |
母親・55歳、息子・24歳 |
| あらた |
母親・42歳、息子・6歳 |
| 娘が運んでくれたもの |
母親・34歳、娘・5歳 |
| 息子とともに歩む |
母親・66歳、息子38歳 |
| 妄想のトンネルを抜けて |
母親・62歳、息子36歳 |
| 療護センターの設置を全国に |
母親・49歳、息子・25歳 |
| 息子の青春は、かえらない |
母親・62歳、息子・35歳 |
| あしたも元気でネ |
母親・61歳、娘・31歳 |
| よし、これからも、ふんばっていくぞ!! |
母親・39歳、息子・12歳 |
| 優しさにありがとう |
妻・34歳、夫・39歳 |
| ふりかえれば |
母親・65歳、娘・33歳 |
| 七年三ヶ月と一五日 |
母親・62歳、息子・29歳 |
| 在宅介護の支援を |
母親・64歳、息子・37歳 |
| 夫が意識障害者となって |
妻・42歳、夫・46歳 |
| 娘の交通事故 |
父親・60歳、娘・20歳 |
| 息子のヘロヘロに勇気づけられ支えられて |
母親・56歳、息子28歳 |
| 沈黙の生命を守って一七年 |
母親・57歳、息子・29歳 |
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| 訪問歯科診療を行って |
石橋 和子 |
| 賛助会員からのメッセージ |
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| 巻末資料 |
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| 大阪府障害福祉課長に提出した要望書 |
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| 頭部外傷や病気による後遺症を持つ若者と家族の会 会則 |
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| 年表「若者と家族の会」の歩み |
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| 四六判・並製・242頁、定価:本体1,429円+消費税 |
発行所=せせらぎ出版 |
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