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Y 脳死身体の医学的利用
Z 手続論と倫理原則
- テクノロジー・アセスメント
- 社会的ルール
- 倫理原則としての人間の矩(人間のWesen)
- 倫理原則と死体利用:死体はその利用の自動的許可を含意しない
[ 自己決定権と人間のWesen
- Wesen放棄宣言
@ 自分を物件とし、手段となることの宣言
A 他者が当人を手段として利用する権利の創造
B (当人が生きている場合は)生命放棄宣言
- Wesen放棄宣言を受け容れるための社会的条件
@ 脳死、移植医療に関する知識
A 移植医療のテクノロジー・アセスメント
B 移植法など社会的ルールの確立
- 社会的条件が、Wesen放棄宣言が人格権を凌駕するに
足るものであることを示す理論的根拠
- Wesen放棄宣言の受容は、
人間の限界線=人間のWesenの消滅への出発点
- Wesen放棄宣言には他者の代理はありえない
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脳死移植への基本的立場
2−2
倉持 武(松本歯科大学・哲学・助教授)
「脳死」・臓器移植を問う市民れんぞく講座
2003年8月24日より |
このページは、U 移植法の役割、V 移植医療とはなにか、W
死、X 脳死 を内容とする脳死移植への基本的立場 2−1の続きです。
1. 賛成
1) 脳死は人の死
2) 脳死は人格死:脳死の人は、生物学的生命は維持しているが、人格としては死んでいる(パーソン論)
パーソン論は、脳死の人が個体維持の点から見ても、種族維持の点からみても、有機的生命あるいは生物学的生命をいまだ失っていないことを認める。しかし、人格であることは単なる生物学的生命以上のことを意味するし、単に有機的生命しかもたないものは、第三者たる我々にとっての価値だけを有し、より善き者、より価値ある者のための手段・道具として他者により決定される存在であり、人格のみが有する権利と尊厳は有しない。単なる生物学的生命の事例であるもの−人間の精子、卵子、培養液中の細胞、胚、胎児、脳死体−は実験材料などとして手段として使用してさしつかえない、と主張する。
(1) パーソン論に基づく身体の各種利用と利用可能身体
@ 移植と研究
脳死身体の首から下はほぼ正常であり、この状態を実績300日、理論上4〜5年維持し得る技術が、文部省科学研究費を使用し、脳死身体を利用した研究により、大阪大学においてすでに10年以上前に、開発されている。この技術開発により、脳死身体の利用方法と利用価値に限界がなくなった。「脳死」が一律に人の死と法的に定められるならば、一般的感情とは齟齬を来たすとしても、以下のAで示す研究等はすべて合法となるだろう。また法的に死と規定された後で「脳死」身体の利用法になんらかの倫理的な線引きを持ち込むことは、おそらく、不可能と言ってよい。
A 脳死身体の各種利用・多重利用
- 医療資源:臓器移植、組織移植、細胞移植、輸血などのドナー。臓器、組織、血液、ホルモン、抗体などの貯蔵庫。血液、骨髄、皮膚、ホルモン、抗体などを定期的に収穫する農場。特異性を持たせた血液、ホルモンなどの製造工場等。
- 基礎医学研究材料:動物実験や試験管内で得られた生理学的、生化学的データの、生きた人間身体での実験データによる修正、再研究。生体状態での解剖学的、病理学的知見の直接獲得。「脳死」判定後も生き残る脳細胞を用いた、神経諸細胞の成長、成熟、回路網構成のメカニズム、老化、死滅、修復の研究。視床下部を核とする脳神経系、内分泌系、免疫系のクロストーク研究等。
- 臨床医学研究材料:「脳死」身体にAIDS、ガンその他の難病などの特定疾患を作り、その感染、発病、増悪、転移などの機序の解明(病気の自然史解明)と治療法の発見。人工臓器・新手術法の開発。新薬の効用試験、毒物負荷、環境負荷、放射線負荷研究等。
- 教育・訓練:死体解剖にかわる生体状態解剖実習。診断、検査、診療実習、臓器移植を含む手術手技の訓練等。
B 人間の資格:パーソン論の拡張
ドナー不足の問題と並行して、「人間の資格」を問う生命倫理の議論が盛んになってきている。「人間の資格」を問うパーソン論は容易に拡大され、歯止めが無くなる。拡大をどうやって防ぐか。
- スタンフォード・ビネーその他の知能テストで、IQ40以下の者は人格的存在としての人間であることに疑問がある。IQ20以下の者は人間ではない。
- 自己制御のできない者は、医学的に治療不能であれば、人間ではない。
- 意志の疎通のできない完全に孤立した者は、意志の疎通を好まない場合と違い、人間ではない。
- 他のすべての性質は大脳新皮質機能によって規定されている。これは、死の定義を大脳機能によって考えようとする方法が正しいことを示している。
@〜C A.ジョセフ・フレッチャー「人格としての人間評価」
- はっきりした意識があって人権を主張し得るか否かという点が、人間であるかどうかの一応の境界線だと考える。自分の生きていることが社会の負担になるようになったら、もはや生き続けるのを遠慮すべきではないだろうか。
太田 典礼(日本安楽死協会 初代理事長)
C 利用可能な身体・組織
- 死体、脳死身体、胎児、無脳症児、社会の敵、近親生体、生体等
- 心臓、肺、肝臓、膵臓、腎臓、脾臓、眼球、胃、腸、骨、骨髄、関節、筋膜、血管、神経、皮膚、血液、胚、受精卵、卵子、精子等
3) 賛成:脳死臨調少数意見、金田 誠一・猪熊 重二案、日弁連案
金田・猪熊案は、脳死を人の死とする社会的合意の存在を否定し、脳死を一律に生と規定した。ところで、金田・猪熊案と同じく生体としての「脳死の人」からの臓器摘出を認める法案を公表していた日弁連は、この点を突く批判に対して、死刑執行、正当防衛、緊急避難の例を挙げ、現行法体系においても結果としての殺人の違法性を阻却することのあることを指摘することによって対抗し、さらに、移植と積極的安楽死の特徴を比較し、東海大学事件に対する横浜地裁の判決を取り上げて、「およそ生者についての患者の自己決定による死期を早める医師の処置を憲法秩序が一切許さないものではない」こと、そして地裁判決に示された積極的安楽死容認の要件と比べても、日弁連案の規定する要件が脳死状態からの臓器摘出の違法性を阻却するに足るものであることを主張した。
しかし、これは、脳死の人を「特殊な状態」、「生と死のグレーゾーン」、「蘇生限界を超えた」あるいは「死につつある状態」と記述することによって、他の生命を救うためであるならば、この状態にある生命を手段として用いてよいと主張し、生命の中に、目的とされる生命と手段とされてもよい生命の区別を持ち込んでおり、パーソン論と同じ論理構造を持つことは否定できない。また、安楽死の要件を引き合いに出していることは、日弁連は、医師の手になる心停止の早期化に関して、それが本人目的なのか、他者目的(臓器摘出)なのかを区別していないことを示している。
2. 反対:ヨナスの反論
「現在[1980年]のところ何か特殊な使用法が予期されているにしろしないにしろ、あるいはまた嫌悪さえされているにしても、相当強い関心に促されたときに、そういう使用をどこまでしてよいかという線を、どこかに引くことができると考えるのはお人好しすぎる。その[脳死を人の死とする]定義(それは絶対的なものであり、段階的なものではない)が、まさにそういう線を引くための原理そのものを無効にしてしまっているからである。・・・医学的な利益−それは非常に現実的で非常に価値のあるものだが−という圧力があるとすれば、その定義にいったん公式の権威が与えられると、それが理論上含意している許可事項が実行に移されるのを食い止めることはできないだろうと予言し得る」
ハンス・ヨナス「死の定義と再定義」、 [ ]内は話者の付加
1. テクノロジー・アセスメント
臓器移植法は附則第二条で施行後三年を目途とした「見直し」を規定しており、これまでいくつかの見直し案が公表されているが、@日本移植者協議会「臓器の移植に関する法律の改正に向けて」、A厚生省科学研究免疫・アレルギー等研究事業臓器移植部門「臓器移植の法的事項研究会案」(町野案)、B森岡正博・杉本健郎共同提案「子どもの意思表示を前提とする臓器移植法改正案の提言」、C西森 豊「脳死否定論に基づく臓器移植法改正案」(てるてる案)が主なものである。
ところで、附則第二条には、三年後を目途として講ぜられるべき必要な処置は、「施行の状況を勘案し、その全般について検討が加えられ、その結果に基づいて」講ぜられるべきだと書いてある。改正案が「施行の状況を勘案した」ものであるといえるには、少なくとも、ドナーとなられた人たちの治療および脳死判定の分析、家族へのインフォームド・コンセントのなされ方、提供意思表示のなされ方の検討、そしてレシピエントたちの疾患、移植が必要になった理由、インフォームド・コンセントのなされ方、手術の様子、術後の検査状況、合併症・副作用、具体的な生活状況の検討、レシピエントが死亡した場合にはその原因の究明等に基づいたものでなければならない。しかし、これら四法案にはいずれもこれらに対する分析、検討がない。
しかし、これら四法案に施行状況の分析・検討が欠けているのは、発案者たちの責任ではない。発案者たちが分析・検討を行おうとしても、分析すべき客観的データがないのである。移植医療の検証は、提供第四例まで厚生省公衆衛生審議会疾病対策部臓器移植専門委員会が行い、それ以降は「脳死下での臓器提供事例に係る検証会議」(座長 藤原 研司埼玉医科大学教授)が担当している。ただこれらの検証会議が検証するのは、ドナーの救命治療、脳死判定、そしてレシピエントの選定までである。移植手術、回復入院、退院、予後という肝心の移植医の関わるところは一切検証対象から外されている。それゆえ、検証会議が公表している、5〜9例目までの検証報告書を読んでも、レシピエントのその後については知ることができない。
町野案が公表された、平成11年度「免疫・アレルギー等研究事業臓器移植部門 総括・分担研究報告書」では、「移植の評価に関する研究」を第三テーマとする「北川班 臓器移植の社会資源整備に向けての研究」も公表された。北川班研究報告書には「移植の評価に関する研究」として「臓器移植直後の追跡・評価の情報システムに関する研究」(分担研究者:大田 和夫元日本移植学会理事長)および「海外渡航移植の追跡調査に関する研究」(分担研究者:小柳 仁東京女子医科大学循環器外科教授)の二論文が掲載されている。しかし、この二つの論文を詳しく読んでも、それまでに国内で行われた腎臓移植や海外で移植を受けた人たちに関する、移植された臓器の生着率、レシピエントの生存率はある程度分かるが、レシピエントたちの生活の具体的状況は全く分からない。逆に、腎臓移植患者の術後フォローアップさえ1994年の中間報告から1998年の調査再開まで中断されていたことが分かるというありさまである。
日本移植学会広報委員会は、「海外および日本での移植医療の状況を正確に理解し、今後のわが国の移植医療の発展に寄与するため、移植に関する基本的な参考資料を提供する」ことを目的として『臓器移植ファクトブック』を発行してきたが、その最新版である2000年10月5日発行の『臓器移植ファクトブック 2000』にも、レシピエントの具体的生活状況に関する記述は一切現れてこない。
2001年度の日本医学哲学・倫理学会において、臓器提供に携わった救急医、脳死判定医、臓器摘出担当麻酔医等からの聞き取り調査の結果に関する貴重な報告があった。「移植医療の目的であると同時にこの医療を推進する原動力となるものは、ひとえにレシピエントが助けられたという事実である。しかし提供病院のスタッフへその事実がフィードバックされることはなく、この医療の成果を実感できるシステムにはなっていない」というのが報告の結論であった。
移植手術の様子は足を運んで直接学会発表を聞けばある程度分かるが、移植手術の結果と術後の様子は移植学会の会員にも分からない。レシピエントの術後は手術実施施設から外に出ることのない業界内秘密とされているのだろうか。
移植状況に関するデータは、本来、日本移植学会、日本臓器移植ネットワークそして厚生労働省がデータベース化しておくべきものである。このデータベースがなければ方向性の正しい改正法案が作れないばかりではない。ドナー候補者の家族、レシピエント候補者本人およびその家族への正確な情報提供ができず、インフォームド・コンセントが成り立たない。それどころか、提供意思表示カードを持とうとする人たちも判断の根拠が得られない。これでは、移植学会、ネットワークそして厚生労働省は、国民に客観的データさえ示さず、「移植医療はなかなか良さそうだ」という単なるムードを醸成し、それだけで小児脳死移植の実現と臓器提供者数および提供意思表示カード所持者数の拡大を図ろうとしているとしか言えないことになる。移植法改訂の前提として客観的データベース構築が必要不可欠である。
2. 社会的ルール
島(ぬでしま)次郎氏は「臓器移植法見直し 真の論点」(『世界』2000.11)で、資本主義社会においては医療サービスも商品化されることによって始めて社会の中に居場所を与えられると述べているが、これについては完全に同意する。しかし、「排除すべきなのは商業化それ自体ではない。研究開発のプロセスにおいて社会が求める一定の倫理的ルールが守られないこと、あるいはそうしたルールが公的に確立されていない状況が問題なのである」という主張には疑問をもたざるを得ない。
たしかに社会が求める一定のルールの確立は必要だ。しかし、それが医療サービスであるならいかなる医療サービスであっても、それを社会の中に受容可能とする「倫理的ルール」なるものが確立できると考えるのは楽観的すぎると思う。無償で提供された人体組織から商品をつくって利益をあげること、たとえば、無償で提供された血管、心臓等を「修理」、「加工」、「保存」して、バイパス用血管8cm35万円、大動脈弁一個85万円と定価をつけてカタログに載せ、レシピエントがこれを購入し、企業は一部上場をはたす。こうした人体組織の商品化に関して、どのような「倫理的ルール」が可能といえるのだろうか。人体組織という人格権の対象、規範として譲渡不可能なものの商品化という非倫理的行為に関する「倫理的ルール」の確立など不可能だ。
3. 倫理原則としての人間の矩(人間のWesen )
現行法のように同意方式を採るにせよ、町野案のように拒否方式を採るにせよ、提供方式選択問題は人体の資源化、商品化に行き着く人間身体の物件化・手段化が、臓器提供意思表示かつ/あるいは脳死は人の死であることを前提として、すでに承認済みであることを前提している。手続一般としてのルールとこのルールを統制する倫理原則を混同し、「倫理的ルール」という考えが生まれるのもこれの承認済みという前提から来ている。しかし、この人間身体の物件化・手段化の承認如何の問題こそが移植医療をめぐる倫理の根本問題なのである。
この倫理的根本問題は人間が目的存在であることから導かれるのであるが、人間が目的存在であることをカントは「その現存在がそれ自体において目的であるものである。しかもそれがただ手段として奉仕すべきいかなる他の目的もその代わりに置かれることのできないような目的」なのであると述べている(『人倫の形而上学の基礎づけ』)。ヘーゲルが『精神現象学』で用いている言い方を借りるならば、人間の本来的あり方、人間の矩、人間の限界、それを失えば人間が人間で無くなってしまうこと、つまり人間のWesenは目的存在であるということである。(当Web注:ドイツ語で発音はヴェーゼン、哲学用語としては普通「本質」と訳されることが多い)
自由、平等、博愛をスローガンとして成立した近代国家は、最大限尊重すべき価値として自由と生命を掲げるが、自己決定権を唯一のルールとしているわけではなく、社会の維持発展のため、それを制限する原則として、他者無危害の原則だけではなく人間のWesenをも認めている。日本においても、結婚年齢制限、自傷あるいは自殺の抑止、売買春の禁止、麻薬所持・売買の禁止等の自己決定権の制限がなされているが、これも他者無危害の原則によるものではなく、人間のWesenに基づいてのことである。
人間のWesenはその生死を区別しない。ここが今日、お集まりの皆さんとは考え方が違うかもしれません。確かに人間は死ねば、憲法で定められた基本的人権の享有主体そして財産権の享有主体ではなくなるが、目的存在でなくなるわけではない。法は、刑法第191条において死体損壊罪を規定し、墓地・埋葬等に関する法律第三条は死亡宣告24時間以内の埋葬・火葬を禁止している。法も死後の人間のWesenを担保しているのである。
このことについて石原 明氏は、刑法第191条が、そして同じくドイツ刑法第68条が保護しようとする法益は「死後にも残る死者の人格権であるとするのが通説となっている。けだし、人は自分の死後、完全なかたちを保って保管され、埋葬されることを要求する権利をもち、それは人間の尊厳の不可侵性と結びつき、その尊厳性は死を越えて尊重されるべき」であるということだと述べ(『医療と法と人権』1997)、
西森 豊氏は、「人体とその一部は、人の尊厳の源である人格および人権の座であり、国はそれらの保護を通じて人の尊厳と人格を充分促進する義務があると考えられている」という島氏の所説を引きながら、「身体、または、臓器や組織等は、〈所有権〉や〈財産権〉の対象とするのは不適切である。しかし、〈人格権〉の対象となりうる。人格権は、所有権や財産権と違って、他者に譲渡できず、一身専属的で死後も存続する」(「脳死否定論に基づく臓器移植法改正案について」2000)と述べている。
そして鶴田 博之氏は、この権利は「子どもにも、のみならず大人にも、『何も知らず、考えなくとも』守られる権利」でなくてはならない」と述べている(「『臓器移植法見直し』をめぐる危ない状況」2000)。
4. 倫理原則と死体利用:死体はその利用の自動的許可を含意しない
脳死臨調少数意見の、生体としての「脳死の人」から臓器摘出を認める主張によって曖昧になってしまったが、元来、脳死は人の死であるか否かという脳死論議は、脳死の人が生きている人であるならば、その人からの臓器摘出はできないという前提の下にあった。逆側から見れば、この前提は、死体からなら臓器の摘出は認められる、死体なら医学的利用が認められるという主張である。確かに、我々は死体をさまざまな仕方で医学的に利用し、これを認めてきた。本人の権利と社会正義のための司法解剖、公衆衛生のための行政解剖、原因究明あるいは医学の発展のための病理解剖、教育のための正常解剖、角膜移植、腎臓移植等の形で死体を手段化し、利用してきた。
しかし、人間は目的存在であり、死後にも人格権が残るという倫理原則・人間のWesenから明らかになるのは、死体の利用ということは人間のWesenの侵犯であるし、死体には、それの物件化、手段化、つまり利用ということの自動的許可など含まれていない、ということである。
貴会Webページに掲載されている守田 憲二論文「『脳死』移植よりも残虐な『心停止』後の臓器・組織提供」が明確に示しているように、深刻で重大な問題をはらむ死体腎移植そして角膜移植は、そこに潜む人間のWesen侵犯を遺族の同意によって贖ってきた。しかし、この遺族の同意による贖いという仕方には大きな疑問が残る。
まず、「遺族の同意権」ということが
@自然的な意味でも意思の存在しない幼児の場合のような、本人の潜在的意思の非存在を前提とする代理決定権なのか。
A意思決定能力はあるが、現実には意思決定していない、あるいは意思決定しているがそれを表示してはいない成人の場合のような本人の潜在的(可能的)意思の忖度・推定権なのか、
B本人の現実に示されている意思に対する単なる同意権であるのか、
C本人の現実に示されている意思に対する拒否権を含む遺族固有の権利であるのか、
明らかでない。
また、一身専属的に死後も本人に帰属する人格権の侵犯に対する、たとえ遺族であるとはいえ、別人による承認ということは、元来、成りたち得ないのではないのか。人格権に関する家族、遺族による同意が認められるのは、自然的意思の存在しない幼児の治療あるいは緊急時における成人の治療などあくまでも本人のための行為、人間のWesenの侵犯がない場合に限られるのではないだろうか。
自己決定権によってWesen侵犯問題を解決し、移植医療への道を開こうとするなら、Wesenに対する侵犯の有無、つまり本人目的行為か他者目的行為かを基準として、意思表示に関してその方法と法的性格を区別する必要がある。行為が本人目的である場合、通常のインフォームド・コンセント、十分で的確な説明を得た上での同意という意思表示が十分条件となり、ここでは代理承諾の可能性もありうる。
これに対し、臓器摘出・移植のように行為が本人を手段とするものである場合、代理承諾の可能性は否定される。ここでも十分で的確な説明を得た上での本人の同意ということになるが、その同意には、
@自分を物件とし、手段となることの宣言、
A他者が当人を手段として、利用する権利の創造
(@、Aは、宇津木 伸「提供意思」『ジュリスト』 No.1121)、そして当人が生きている人である場合は、
B生命放棄宣言、が含まれていることが必要になる。
ところで、このWesen放棄宣言は、Wesen侵犯問題解決のための十分条件ではなく、必要条件の一つであるに過ぎない。社会が、たとえば脳死移植の場合には、脳死や移植医療に関する最低限の知識、テクノロジー・アセスメントおよびルールの確立等の、Wesen放棄宣言を受け容れる条件を示していること、そして、この条件で承認することの、つまり、たとえば自己決定権と人格権のせめぎあいである移植医療に関して、その条件がWesen放棄を内包する自己決定権を人格権に優先させるに足る条件であることの、理論的根拠を示していることも必要である。
現在までのところ、脳死移植論議は脳死や移植医療に関する知識獲得と移植法というルールの確立という条件の提示に止まっており、その条件が、Wesen放棄宣言を内包する自己決定権が人格権を凌駕するに足る条件であることを示す理論的根拠は示されていない。これは、Wesen放棄宣言自体の承認ということ、あるいは社会的に示された条件が、この宣言が人格権を凌駕するに足る条件であることを示す理論的根拠の存在ということが、もともとありえないことであるからだと思う。
しかし、私が間違っているかもしれない。そして、この理論的根拠が示されるかもしれない。この場合、他者の救命のための人間のWesenの放棄が認められるようになり、命の贈り物という美しい言葉とセットになっているかに感じられる生命保存に対するあくなき欲望、技術的に可能なものならなんでもという野放図、が解禁され、これもまた人間のWesenが意味することなのだが、人間であることの限界線の消滅に至ってしまう可能性が高い。これを防止するには人格権の優位を守るしかないと考えるのだが、たとえそれが適わぬとしても、Wesenの放棄宣言には他者の代理はあり得ないということだけは確認しておきたい。
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