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私自身は数十年、
大本(おおもと)という教団のなかにおりますので、宗教的な見方から「死」というものを見ていることが主になっています。「生死」は宗教によって、かなり理解に差があります。タイプが違います。
大本は「教えがあって、信者がいる」という教派神道に属します。教団に明確な教義、信者がいない神社神道とは異なりますが、もともと神道ですから、教えの大綱は日本の神道に順ずるもの、近いものであります。他宗の方には申し訳ないかもしれませんが、死生観の理解は日本人的な感覚、自然な理解に近いのではないかな、という感じがいたします。
例えば「人というのは、ある目に見えない意思によって、ある時、ある場所で、ある親から、これは自分が選べないんですけれども生まれさせられる。同じように亡くなる時というのも、自分でもちろん決めるわけにはいかない。自分を超えた世界から、決められた場所と時間と理由とによって亡くなるんである。それを自分が受け入れて、自分がどう人生のなかで努力をするか」、という理解をします。そういうことからすると、特に人為的に生死を扱うということに対しては、基本的には神道としてはあまり賛成しない立場にあります。
もう一つ大きな特徴は、人というのは体がありますが、同時に魂があると理解しています。魂というのは宗教は、わりと口にしますが、明確でない宗教が結構あります。大本は明確に、魂はどういうもので、何かの働き・使命を持っている。肉体をリードする主たるものが魂であって、というところまで触れていますから、そこから結果的に教えられる死というものは、主たる魂が肉体から離れる瞬間が死である、と理解しています。
魂はいつ離れるのか。ここでは宗教によって理解が変わってきます。例えば「脳死になったら魂が肉体から離れる」と考えた場合は「脳死」は死になりますし、そうではなくて心臓死の段階で肉体から魂が離れると見た場合は、心臓死が死になります。大本の場合は、明確に心臓死をもって死と理解します。大本の根本経典『霊界物語』に一貫して「肺臓、心臓が停止する時をもって、魂が肉体から離れる」ということから、いまでいう心臓死が死であると書いてあります。そうすると「脳死」であろうが植物状態であろうが、生きている人と理解しますので、生きている人から臓器を採ることは許されない。
今の「脳死」からの臓器移植は、死というものを取り決めるといいますか、創らないことには臓器を採ったと同時に殺人行為と見なされてしまうことから、人が死ぬことを決め事をしたことになります。「脳死」というのは、「この人は今、死んでいるのか生きているのかを決めなければならない」ということから、いろんな判定をして「やはり死んでいるのではないか」「いやまだ死んでいないないんじゃないか」というのは本来、すべきことかな、という疑問を感じます。既になくなった人で、本当にその人は亡くなったけれども、どうして亡くなったかを調べるのは必要で、結果・真偽を確認するものであって、いわゆる第三者が積極的に「この人が死んでいるかどうか」を決めようとするものではないと思っています。今の「脳死」というものは、家族が「まだ助かるんではないだろうか、まだこちらの声が聞こえたり、気持ちが通じるんじゃないだろうか」という迷いの中で、第三者が「いや既にこの方は亡くなっております、と理解しなさい」と強制すべきかな、と疑問を感じます。
最近、私が精密検査でMRI(脳断層撮影)をすることになりました。顔から顎まで縛られて、その機械に入る時に肩が当たるくらいに、閉所恐怖症の人だと耐えられないくらい狭い。「顔も顎も動かさないで下さい」と言われる。高知赤十字病院に呼吸困難の状態の方が搬送された時に、気道確保をする前にCT撮影を優先させたということは、それだけでも救命ということからすると、違うんじゃないかと言う感じを受けます。
2例目の「脳死」臓器移植があった後、慶応大学病院内の新聞に河瀬先生が記事を書かれました。今後の臓器移植の発展のために、敢えて問題点を箇条書きに書かれています。その一点目が、このことです。「脳死」からの臓器移植に疑問を感じている人が読む場合と、そうでない場合はいくらかニュアンスが違うかもしれませんが、要は、「脳低温療法というのは脳死に近い人が復帰される可能性を持っている医療方法なんですが、それがドナーカードを持って脳死になりかけた方には適用しがたい」ということです。
脳低温療法で体温を下げてしまうと「脳死」になったかどうか、わからなくなってしまう。「脳死」になったことがわからないと、ドナーとしては臓器提供ができない。救命するという点では脳低体温療法は有効であるれども、その本人の意思を受けてドナーとして臓器を提供することになれば、その治療(脳低体温療法)に入るべきでないという判断が生まれることが、非常に大きな矛盾になると書いておられます。
特に脳低温療法をして、その間に、もしかして「脳死」の状態になっているんじゃないかと思っても、(脳死)判定をするためには体温を平熱に戻さなければいけないということは治療を中断しなければならない。治療を中断する間、もしもそうでなかった場合、再び(脳低体温療法を)継続するのが難しいのと、その(体温を平熱に戻す)間、感染症の危険とかある。そのような危険なことまでして検査をすべきではない。ということは脳低体温療法をすることは臓器を提供しないということに、なかば決まってしまう。ドナー(カードを持っている人)に関しては、脳低体温療法はできない医療になる。この矛盾をどうするか、ということを書いておられます。
本来的には「ドナーに尽くすべき医療を尽くして、不幸にして脳死になられた場合、その意思によって・・・」となるんですが、尽くすべき医療が尽くせない、これは非常に大きな問題だと思っています。
同時に宗教的な立場でも大事なことですが、他人の死を期待し待つ医療も問題のあることです。「誰かが亡くなるのを待つのではない」と言葉ではいうものの、(臓器移植で)助かる道があると聞かされたばかりに、そういうことを思ってしまう。命が比較されてしまう。「こちらの人は助かる・・・」と言うことに近い状態を作ってしまうのが、大変、大きな問題です。
テレビを見てまして、「日本では子供の心臓移植ができません」というアナウンサーがあったので、電話をしたことがあります。「『日本ではできない』とは言わないで下さい。『日本では行わないので』と言って下さい。日本では行わないと決めたんですから、できないんではありません。『できない』というと『できるようにしなければならない』と聴いている人に浮かんできます。そんな思いをしたことがあります。
宗教界の動きとしては、神道に限らず日本宗教連盟は(1997年4月)、臓器移植法の慎重審議を要望する声明を出しました。各宗教に所属している信者のなかには、病気の方、臓器を移植された方もある。簡単に(「脳死」臓器移植)反対と謳ってしまうと、そういう方々が信仰的なショックを受けたり、八方ふさがりな気持ちになってしまったり、「取り戻しのつかないことをした」という罪悪感に、もっと現実的に言うと「檀家やめますわ」ということになったりということから、非常に旗色を明確にしがたい面があります。「慎重審議を求める」ことを合意したことだけでも、ある意味では進歩かな、と思います。
宗教界は全体として慎重な立場をとっています。臓器移植そのものには賛否が分かれます。「臓器移植をすれば助かる、だから臓器移植には反対をしない」という宗教があります。しかし「脳死を死とするか」については、ほとんどが否定的です。どこからともなく臓器がくるわけじゃないんですけれども、「臓器移植法はあってもいいんじゃないか」という宗教もありますが、「脳死は人の死か」ということに対しては、おおむねの宗教は賛成とは言いがたい立場をとっています。
日本の宗教界は、このような問題は得意ではありません。本業はやはり、教団運営であり信徒育成、獲得なんですね。非常に現実的な話をしますと、一般にですね。それに対してボランティアとか社会運動、もっと言えば政治的な運動は、はっきり言ってメリットが少ない。逆に言うと、さきほどちょっと申し上げましたようにデメリットが出かねない。だからある教団の幹部が「できることなら避けて通りたい」というふうに、正直な方だと思いました。「こういう問題も考えろと言われたら大変なことだな。しかも、そのことで旗色、考え方を明確にしたら、またそれから教団内で議論が生まれたり、いろんな荷物を背負うことになるというのも、ある種、本音だろうなと思います。キリスト教を基盤とする国では、いろんな法律に宗教界の意見が当然のように出てきます。ある意味では(日本の)宗教界の怠慢があると感じています。
大本の場合は、「脳死は人の死でない」との見解を1985年6月に教団機関誌で発表しました。1991年12月、教団声明
「脳死を人の死とすることに反対」を発表しました。1997年5月臓器移植法案に反対する見解を発表したりという動きが出てきました。なんらかの(「脳死」法案反対の)動きをとろうと、信徒の府県組織を通じて選出議員や地元議会に働きかけをしました。1998年7月に京都府綾部市議会が、12月に京都府亀岡市議会が、法見直しに慎重審議を求める意見書を内閣総理大臣、厚生大臣宛に提出しました。臓器移植法施行後は、一例目以降、「脳死」からの臓器移植が行われると「脳死からの臓器移植が行われることは、国民の理解が得られていないこの時点で、誠に遺憾である」という教団声明を厚生大臣、病院長、臓器移植ネットワークへ発信しています。
1997年9月に生命倫理問題対策会議が大本本部のなかに作られて活動を開始し、1998年3月にノン・ドナーカードを創りました。6月からノン・ドナーカードの街頭配布を行うとともに、一般の方を対象に対外講演会を全国39会場で開催いたしました。教団内でも何か行事がある毎に、「脳死」の話をする時間を必ず取っています。教主からも「(大本の)先人の思いに対して、現実に今の世の中がこういう時代が回ってくるなかで、何もしなかったら将来、死後、霊界に入ってから顔向けができない。できる限りのことをしなきゃならん」と、かなり発破をかけられました。月刊の人類愛善新聞に掲載した記事をまとめて、異議あり!脳死・臓器移植という本も発行しました。1999年5月から2000年5月まで、街頭署名活動を全国的に行いました。多い人は千数百人の署名を、大坂城ホールの前で集めた人もいます。
中島 みちさんの「脳死と臓器移植法」という本のなかで、気になることが出てきます。それは署名の体験をしたからなんですが、この本のなかに「なかなか日本人は脳死に対して理解がなかった。ところが高知の一例目が起こった時に、報道もされたことから意識が高まって、ドナーカードを持つ人が増えた。そして『ドナーになります』と署名をする人が増えた」と書いてあります。
私は手紙を書きました。「私たち人類愛善会としては、その当時(一例目)街頭でノン・ドナーカードを配ったり、署名活動をしていました。それまではまったく冷たいもので、ほとんど無視をされ配るだけでも大変、難儀をしました。ところが高知の一例目の移植があってから、それまで一番無視をしていた若者層が関心を示してノン・ドナーカードをもらってくれるようになった。署名はその当時、一日繁華街でやっても3人とれるかとれないか、10人とか20人しか集まらなかった署名が、(高知の一例目後は)は100人台になりました。反対だということで賛同して署名してくれる人が、(脳死・臓器移植の現実化で)それから増えたんです。中島みちさんが書いておられることは一面そのとおりですが、同時に脳死からの臓器移植に反対する人も、その時点から増えたのも事実です。おかげで署名は最終的に87万人になりました。そのことも同時に触れていただきたい」と。返事が来ませんけれども、またもう1回、本を書いて(増刷)していただくのも難しいのかもしれません。
署名活動をしている時に、追いかけられて交番に逃げ込んだ人もいましたし、殴られそうになった人もいますし、唾をかけられた人もいます。そうした人たちの思いというのは、「困っている患者さんを助けることに反対をする、非人道的な団体だ」という見方をしているようで、そうした人たちは「けしからん人らに叱ってるんだ」という意識ですね。怒鳴られるのはしょっちゅうでして、「やめてしまえー」というのは、よく聞きました。
「脳死は死だ」と思い込んでいる国民が、かなり多い。「脳死は死んでるんや」というのは、何べんも聞きました。そのたんびに話せる余地があれば「いや脳死は死んでないですよ。ただ臓器移植をするために死と見なしているだけで、脳死の人は死んでないと法律でもそう言ってるんですよ。脳死が死だとは決めていないんですよ」と説明しました。ある意味ではそういう推進派にとって都合の良い誤解を、放任しているように思います。「脳死になったらもう死んでるんだから」と言う人もあるように、それを「ちょうどうまい具合に誤解してくれている」、そういう形になっているようです。
署名を臓器移植法施行3年目に合わせて提出する時に、説得力のある主張をしたいということで、ドナーアンケートをしました。2000年5月に総理府の総理府世論調査が実施されました(調査人数=2,156人、ドナーカード所持率=9.4%、常時携帯者=4.0%)。この数字を見た時に「全国民の2,000人の調査で、『国民の意識だ』と言えるのか」、とまず疑問に感じました。その当時、もう80万人の署名を集めていましたから。これが国の調査ということでいいのかなと。
この前に2000年3月30日、島根県の新聞に学生が独自でしたアンケートが載りました。結果として「脳死が何か分からないというのが、余りにも多い」と書いています。そのことを思い出して「そうか、こういうふうに(総理府)統計は出てるけれども、分かってないんじゃないか。“善意の(脳死は人の死)誤解”と同じで」。そこで急遽、街頭でアンケートをしました。アンケートの仕方は「あなたは脳死がなにか分かりますか」と聞いたって、「それは分かるよ」とほとんどの人は言ってしまうんで、分かるか分からないかの目安は一つ、植物状態との違いが分かれば、これはもう大きな違いです。植物状態というのは生きている人ですから、この人の臓器を獲るわけにはいかない。「脳死」というのは今の法律上、ドナーになりうるということで「植物状態と脳死の違いが分かりますか」という、この一点だけ質問して欲しいということでアンケートをしました。
ドナーアンケート結果 |
| 大本本部街頭アンケート
2000年9月実施 回答数5,194人 |
総理府世論調査
2000年5月実施 調査人数2,156人 |
| 脳死状態と植物状態の違いがわかる
分かる →1,373人 26.4% 分からない→3,821人 73.6% |
|
| ドナーカードを持っている人
665人 12.8%
そのうち、脳死状態と植物状態の違いがわかる
分かる →248人 37.3% 分からない→417人 62.7% |
ドナーカード所持率
9.4% |
| ドナーカードを携帯している人
208人 4.0%
そのうち、脳死状態と植物状態の違いがわかる
分かる → 79人 37.9% 分からない→129人 62.1% |
常時携帯者
4.0% |
東京、大阪、神戸、京都を中心に5,194人のアンケートが集まりました。「脳死状態と植物状態の違いがわかる人」が26.4%(1,373人)、分からない人が73.6%(3,821人)となりました。堂々と応える人がありました。「植物状態の人というと臓器と獲っていい人、脳死というのはまだ駄目な人」という人も。3割いないんです、(脳死状態と植物状態の)違いがわかる人」が。
ドナーカードを持っている人は、私たちの調査で12.8%(665人)、国の調査よりも多かったのは(アンケートをとったのが)都会だったからかもしれません。ドナーカードを持っている人に「脳死状態と植物状態の違いが分かりますか」と聞いた場合、37.3%(248人)と4割いかなかった。6割以上の人が(臓器提供意思表示)カードを持ってて、しかも分かっていない。ドナーカードを携帯している人は4%(208人)、100人に4人。そのうち、「脳死状態と植物状態の違いがわかる人」は37.9%(79人)と4割いかない。
やはり(「脳死」下で臓器を提供する意思表示をする)ドナーカードを持っている人の半分以上=2人に一人以上は、分からずに持っているという結果がでています。それを“うっかりドナー”と名付けています。「こういうもんだろう」とか、または「ボランティア精神」とか、「そういうもんだ」という思い込みの原因は、マスコミを含めていろんなものがあるんでしょうけれども、結果的によく分からずに、ある種の正義感かボランティア意識か分からないんですけれども、現実を目の前にした時に、この人たちはどうされるのかなという思いがいたします。
それを最終の署名提出と合わせて要望書に、「こういうことは国としてもしっかりと情報を出すべきではありませんか、情報不足の中でイメージだけが先行して、ドナーになることが良いことだ、というだけで進んで行って、そのためによく知らないうちにドナーになってしまう人が出るんじゃないか」ということも含めました。その年、法施行3年目ということで2000年10月16日に、87万1,571人分の脳死・移植反対署名を提出しました。当初は20万集まれば、と思っていましたが、どんどん増えまして大本以外の方からも一人で1,600人分集めて下さった方もあります。
ノン・ドナーカードは200万枚作りました。ドナーカードは59,634,529枚作ったそうで、国民の2人に一人は持っているはずですが、さっきの総理府調査とはまったく合わない。所持率は1割ないんです。ノン・ドナーカードもドナーカードも、まだまだいろんなところに積まれているのが現状です。ドナーカードのほうはお金があるのか、ティッシュペーパーとかいろんな物を付けて、バックの力の違いだなと思っています。
最近、馬主協会の関連で話題になっているトランスプラントという(日本臓器移植ネットワークの)季刊誌があります。たまたま見ていましたら、山田まりやさんというタレントのサイン入りドナーカードのプレゼントがありました。これは怪しからんな、と思います。ドナーカードは、これがあれば「脳死の時に死」という遺言になる遺書です。遺書に「タレントのサインを書いたものを要りませんか」というのは、不真面目な話だ、本来では無いな、と思います。
この頃は、あまり公共広告機構が出てきませんが、一時はこういうのがテレビにも出まして「私は生きている時になにも良いことを
してこなかったから、せめて死んだら人様のお役に」といってドナーカードを見せます。すぐJARO(ジャロ)に電話をしました。誇大な広告、嘘や誤解を言って下さいというところに。
というのはこれは「私は生きている間に良いことをしてこなかったから、せめて死んだら人様のために」ということを裏返すと、「死んでドナーにならない人は良いことにならんぞ」、という意味で、ドナー=良い事と意識を誘導するコマーシャルになる、と電話をしましたら「いやー、それは臓器移植ネットワークの方に言って下さい」と言われましたので、すぐにもういっぺんJAROに電話しました。
「嘘の広告をしている会社があります。それはJAROという会社です。問題のある広告は言ったら善処しますと言ったって善処しません」と言ったら「いや、それはうちですから、すぐになんとかします」と。それと同時に移植ネットワークに連絡しましたが「そうですねえ」とわりと認めまして、それでかどうかは分かりませんが、その後あまり見かけなくなったようです。しかし公然と「ドナーは良い人、ドナーでない人は悪い人」というのは「臓器提供は良いこと」というイメージを出すもんだな、と思いました。
今年3月14日に厚生大臣宛に要望書を(真言宗)密教21フォーラムの名前で出されました。私も一緒に行かせていただき、厚生省臓器移植対策室の次長ほか2人と30分くらい問答いたしました。そのなかで感じましたのは「やっぱり役所という立場は、完璧な建前で通すんだな」ということ。私が言ったのは、大本に寄せられたメールの一つで、臓器摘出病院に指定された病院で脳波検査技師をされている方のことです。「5倍の感度に脳波計を上げるということ自体、想像もできないことです。5倍の感度を上げた脳波のなかには、雑音、アーチファクトが入り非常に読み取りにくい。だから(平坦脳波は)単純に一本線になるだけではありません。『この状態が脳波が無い平坦脳波なんですよ』というサンプルもありません。ですから今までの10例のなかで、こういう脳波であったというサンプルはありませんか」というメールが来ました。
そのことを厚生省の席で申し上げました。それは「本当にきちっとした判定をしようとするなら、関係者には公表して『こういう場合は、こういうふうになったんだ』と公表されないと、経験無しで不安な判断をせざるを得ない」と言いました。というのは余りにも情報が出てこないからです。そうすると、一言で返ってきました。「脳波技師は検査しません。医者がやりますから」と。それは実際は建前論でして、脳波技師は責任もあれば係る訳ですから、そのことと本質の質問は違うんで、そういう情報が出ないという問題は別なんです。
宗教者と言われる人のなかでシンポジウムをするんですが、私の感想では「宗教者」というよりも「宗教学者」の議論で、「宗教の立場から見た場合」というよりも、く「宗教学の立場から見た場合」の議論が、どうも多いようです。“理屈の理屈”という感じがします。人として本当にそれで納得がいくか、得心がいくかということと、学問上こうなんだというのが、どうもずれている部分もあるんじゃないかなと思います。一番、それが端的に出るのは、臓器移植をしないと助からない人に対してどうするのか、ということになってくると学問ではどうも答えがでないようなんです。
ところが宗教の立場から見ると、ここが一番大事なことで、それは臓器(移植)に限らず難病の方や、色んなことで「どうしようもない駄目だ」といわれる人に、この人はどういう気持ちで今から今日、明日を過ごすのか、をどうケアするかは大事なことなんですが、それは学問でする問題だろうかと非常にシンポジウムの度に矛盾を感じますし、なかばそういうことに対して遠回しに非難を受けることがあります。「大本は反対のために反対している。反対ばかりしてアフターケアが無い」。どういう事かと言うと「そんなに反対するなら、では臓器移植でしか助からない人はどうするんだ、どうしようもないでしょう」と言わんばっかりなんです。
そこで我々は、「誰に限らず本来、命というのは比較できるものでもないし、自分には自分に与えられた一生がある。その一生のなかの生き方であって、臓器移植によって仮に寿命がいくらか延びたとしても、それは死期の引き延ばしをしているだけで、本当にその人が移植をして10年延びた寿命が納得できるのかというと、やっぱり「もう何年か生きたい」と延長してくる。死ぬ人が死なないのではなくて、死ぬ時期が変わるだけかもしれない。で、そのためにまた死ぬ時期が早まる人がある。そのこと自体が・・・」と、そういう話をして、すぐに納得されるかどうかは別としても話すだけは話す必要があるんじゃないかと。
そう言いますと「そんな聖人君子みたいな人ばっかりはいないでしょ」と言われたこともあります。それは別に特殊な悟りの世界ではなくて、それぞれが理解しないといけないことです。亡くなる命だからこそ貴重であって、また死に変わり生まれ変わるからこそ向上がある。同じ人が何千年も生きるんだったら向上が無いんですが、その人がその世代が終わり、また次の世代がその人を学んでいくことによって向上があると思えば、そのことを理解しない限り執着をどんどんどんどん増幅させれば、やっぱり自分が長生きしなければならん、とどうしてもなってくると思います。
「五体不満足」の著者が“障害は不便ではあるが、不自由ではない。私の個性です”と、聾唖の女優さんがやはり同じように“聾唖は個性です。生まれ変わっても聾唖になりたい”と言われました。そこまで思われる方がどれだけおられるかは分からないけれども、考えてみれば、それぞれの体の特徴なり、ある意味では病気があったり怪我があったりするのは、その人の個性であり特徴であって、それをマイナスに考えてしまったら非常に人生がマイナスになってしまいます。それを自分がどう生きていくか、それを含めて自分だ、と理解しない限り、他人を羨んだり、できない治療に執着してしまうことになるんじゃないかなと思います。
法律ができて改悪されてはいけませんけれども、今の気持ちは『坂道を、転がり落ちる荷車の、すべは無くとも、なお叫ぶかな』という歌があります。坂道で荷車を離してしまったら、カラカラーッと落ちてしまって走っても追いつかないんですけれども、それでも「危ないぞー」と叫ぶことができる。それに似たような思いで、臓器移植法ができましたから、ドナーが出れば今日でも移植が起こるんですけれども、しかし我々、人類愛善会の活動としては口コミででも「脳死・臓器移植とはこんなもんだ」ということを言って、ドナーを出さない運動を、ドナーを思い止まれば結果的には法律ができても臓器移植はないということになるので、そういう方向で頑張りたいなと思っています。
質疑応答
- 問い=優生思想が非常に強い、「(救命しても)植物状態の患者を増やしていいんだろうか」と悩んでいる救急医が、「脳死」じゃないんだけれども「もう、脳死です。あきらめてください」と言って治療を止めさせる、ドナーカードを持っていたら「脳死」でなくても臓器を摘出することがある。そうした悩みが、「脳死」を社会に取り入れさせようという理由にもあるようだ。植物状態になると家族は、患者を病院に預けっぱなしになってしまうこともあり、「医療資源の有効活用」という点で悩んでいる。
- 松田=実際の非常に難しい部分がそうだろうと思います。「宗教的にはこう思います」だけでは終わらない部分があります。ただ、そのなかで体験的にあることがあります。一般に意識が無いのと、本人がものが分からないのが同じだろうか。ごく最近、大本の信徒で心肺停止、心臓に電気ショックを10回以上して最終的には元気になった人がいます。
その方の記憶には、その間全部、ちゃんとした記憶がある。大本の教典のなかに「意識が鮮明になる。死後、もっと鮮明になる」ということを裏付ける体験をされている。家族の会話が皆聞こえるものですから、枕もとにいるように思っていたが、実際は部屋の外にいた。奥さんと娘さんがいながら声をかけてくれないので、寂しさが昂じて憤りになって腹が立って、「こんな家族あるもんか」と思って退院してから口を利かず夫婦仲、家族仲が悪くなってしまった。家族はそれは「後遺症で情緒不安定になった」と思っていた。ところがよく聞いてみたら「あの治療を受けている間、何の一言も声をかけてくれなかったやないか。こんな薄情な家族はおらん」と怒ってた。
奥さんと娘さんが言われるには「ああいう状況で家族が『臓器提供をしようか』と言う話をもししたら、どんな思いでそれを聞いているだろうか。『部屋の外の会話まで記憶にある』ということからすると。(臓器提供の意思があっても)まだ、そんな段階ではない、という後悔があるんじゃないか」。
となると今の植物状態の人も、人によっては多分わかっているんじゃないかなと思います。そう思って質問を考えると、違うことが出てくると思います。その方が命がある限りは、生きておられる人としての処遇がまず大前提です。「この人の命はどうだ、この人の命はどうだ」となると一番弱い人は「脳死」の人です。そこから切られないようすることが、すべてそういう人たちが守られるように活動することが、もとだろうと思います。
- 問い=「他人の肉体を利用してまで助かる」ことについて、因襲的な経過できた品位というかタブーは宗教的にどうなのか。医学的に合理主義を徹底すれば、どんどん行く。それを救ってもらうのが宗教なんですが。医学が進歩することは宗教的なことをネグレクトしてきた。肉体と精神のことについて、もうちょっと教えてもらいたい。
- 松田=臓器移植の場合は「他人の臓器をもらって生きることがどうなのか」という以前に、「私の体を他人にあげてもいい」ということ自体を、問題にします。それは「自分が自分のものではない」「この世の中だけがすべてではない」という考えが大前提にあります。
自分の肉体は生まれてから亡くなるまでの間だけあるもので、その前にも無ければ後にも無いんですけど、そのものは一貫した生命のなかのある一時期だと考える。「自分たちの判断の及ばない部分で、この時代に生まれさせられたんだ」とすると、自分が路線変更することは許されない。自分の体を他人にあげる、という発想自体が自殺と同じ。それをもらう人は次の段階であって、すべきではないと思います。
- 問い=アメリカで80年代に、移植推進団体が宗教ごとに対策を立てた。(そのなかで)日本はブディズム(仏教)とあって「肉体と精神は分離しない。だから肉体はきれいに扱いなさい」と説明していて、ホンマかな!という気がした。西洋人は「肉体と精神は分離するから、肉体は借り物だから自由に使いなさい」という感じがあった。
僕の考えは「肉体全部に私の精神が宿るはずだ」。だから「脳がやられても、ほかの部分が生きている」、ということになる。最近見た映画でも、西洋でも心臓移植に使われ亡くなった子供の心臓を求めてお母さんが探す、という映画があった。肉体に精神が宿るんだな、宗教が分かれていても、そんなんじゃないんだなーという気がした。
- 松田=同じように日本の古来の考え方もあります。肉体に精神が宿る、というのは一つではなくて、もっと言えば肉体の外にまである。傍に行くと、その人の温かさを感じるとか。
臓器移植をすると、その人のところに、幾分(精神が)留まるとも思われます。(レシピエントの体内で)実の子供の心臓が動いている。物理的に言えば生きている心臓がある。死者への思いを現(実世)界にいる人間が忘れられなくて、ずーっと引きずる。精神的なものが壊れていくきっかけにもなる。だからするべきではない行為なんだろうな。医学、科学でできるから、してよいかとなると、このことなんじゃないかなと思います。
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