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2004年(平成16年)3月2日
厚生労働大臣 殿
福岡県弁護士会
会 長 前 田 豊
同人権擁護委員会
委員長 安 部 尚志
要 望 書
当会は、弁護士法に規定された弁護士の使命である基本的人権の擁護と社会正義の実現を期するために人権擁護委員会を設け、人権侵犯救済申立を受けた案件について調査を行い、事案に応じて適宜の措置をとることとしています。
このたび、岡本隆吉外236名の申立にかかる案件について、人権擁護委員会で調査・検討を重ねた結果、貴殿に対して下記のとおりの勧告をすべきものとの結論に達し、当会の議決機関である常議員会においてこれを承認しましたので、下記のとおり要望致します。
貴殿は、臓器移植法3条により「移植医療について国民の理解を深めるために必要な措置を講ずるよう努め」る義務を負っているにもかかわらず、第9例目の脳死下での臓器提供事例にかかる検証については、以下の通り極めて不十分であり、その義務を尽くしたものと認められません。
検証会議の報告書によっても、@第1回目臨床的脳死判定時の平坦脳波は、適切な測定方法が採られていない。A第1回目臨床的脳死判定時の咳反射について、これを見落としたか、あるいは、その時点では存在しなかったものの、8時間以上経過した際に復活したかのどちらかの事実が認められる、という問題点があります。
従って、測定方法の誤りに対しては、再発防止対策を採ること、また、咳反射が8時間以上経過後に復活した場合には、臨床的脳死判定から6時間おいて行うこととしている法的脳死判定の開始時刻を遅くするなど、脳死判定基準の改定をも視野に入れた手続きの十分な調査検討を行うこと、さらには、今後の脳死臓器移植に関して、厳格に調査検討を尽くすよう要望します。
第1 当事者
1 申立人
氏名 岡本隆吉ほか236名
2 相手方
名称 医療法人徳洲会福岡徳洲会病院
第2 申立の概要
相手方の病院勤務医師による脳死判定手続に違法があり、その結果、相手方が臓器提供患者の人権を著しく侵害したので、相手方に対して、人権救済のための警告を発することを求める。
本件の事実経過は、相手方が"脳死下での臓器提供事例に係る検証会議"に報告した"診断・治療概要"によると、次のとおりである。
| 2000.6/28 |
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| 17:15 |
患者が受傷 |
| 17:42 |
相手方病院に救急搬送された。来院直後に心肺停止を生じたが、蘇生。 |
| 18:45 |
外傷性くも膜下出血、原発性脳幹損傷と診断。 |
| 19:32 |
人工呼吸器を装着し、引き続きICUで治療を継続。家族に対し救命は困難な状況と説明。 |
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| 6/30 |
深昏睡(JCS300)、瞳孔散大、対光反射、自発呼吸なし。主治医から家族に現在の臨床症状と脳波平坦の結果を説明し、臨床的には脳死に近い旨を説明した。家族より、患者自身が臓器提供意思表示カードを持っていたが現在はどこにあるかわからないとの申し出があった。 |
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| 同7/2 |
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| 20:00 |
家族が臓器提供者カードを持参し、脳外科当直医が対応した。 |
| 20:10 |
当直医が院長に報告した。 |
| 20:18 |
ネットワーク九州沖縄ブロックのコーデイネ一タ一に連絡。 |
| 20:15 |
ネットワークのコーディネーターとの話し合いがもたれた(ネットワークのコーディネーター、主治医、脳外科医、当院コーディネーター)。翌日院長が来てから再度話し合うことになった。 |
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| 同7/3 |
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| 9:55 |
臨床的な脳死判定の診断。 |
| 10:35 |
主治医側とネットワークのコーディネーターと話し合い。 |
| 11:50 |
ネットワークのコーディネーターと家族が話し合い。両親の合意は得られたが、患者の姉弟(3人)の合意が十分に得られておらず、再度話し合いをすることとした。 |
| 16:40 |
ネットワークのコーディネーターと姉弟を含めた話し合い。 |
| 17:28 |
脳死判定承諾書及び臓器摘出承諾書受領。これにより脳死判定を開始することが確認された。 |
| 18:47 |
法的脳死判定開始(麻酔科医師、神経内科医師)。両医師により、深昏睡、瞳孔散大、脳幹反射診察進む。法的脳死判定を行っている際に、神経内科医師が、臨床的な脳死判定に用いた脳波について問題提起をした。このため脳死判定をやめ、臨床的な脳死判定をやり直す必要があると考え、ネットワークのコーディネーターに法的脳死判定の中止を伝えた。引き続き臨床的な脳死判定をやり直した。その後、麻酔科医師が、咳反射(吸引管を気管チューブに挿入し機械的刺激を加えると胸郭が動く)があると診断した。神経内科医師は、咳反射については、麻酔科医師と異なる判断であった。この時点で臨床的に脳死の状態ではないと診断された。 |
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| 同7/4 |
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| 8:00 |
回診にて診察(咳反射あり) |
| 19:00 |
脳外科回診にて診察(咳反射あり)。この際、気管内チューブに吸引管を挿入し、機械的刺激を加えても反射はなく、吸引した場合にのみ胸郭、心窩部が微妙に動くことが判明した)。 |
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| 同7/5 |
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| 8:30 |
脳外科回診にて(同様の咳反射あり) |
| 19:30 |
脳外科回診にて(同様の咳反射あり) |
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| 同7/6 |
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| 8:00 |
脳外科回診にて(同様の咳反射あり、右胸郭のみ) |
| 18:15 |
脳外科回診にて(同様の咳反射あり)。咳反射はかなり弱くなっていた(右にわずかに出現)。 |
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| 同7/7 |
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| 8:00 |
脳外科回診にて(同様の咳反射あり、右胸郭に弱い反射あり) |
| 9:15 |
ICUにて麻酔科医師、脳外科医師、主治医で咳反射を行った。単純な機械的刺激で陰性、吸引しても陰性であった。 |
| 12:30 |
臨床的な脳死判定の診断開始。 |
| 15:40 |
臨床的に脳死と診断。家族から臓器移植に対する考えが変わらないことを確認。 |
| 16:05 |
ネットワーク九州沖縄ブロックのコーディネーターに連絡した。 |
| 18:04 |
ネットワーク九州沖縄ブロックのコーディネーター到着。 |
| 18:20 |
ネットワークのコーディネーターと家族が話し合いを持つ。 |
| 19:20 |
脳死判定承諾書及び臓器摘出承諾書受領。 |
| 19:23 |
第一回法的脳死判定開始。麻酔科医師、神経内科医師が法的脳死判定開始を宣言。 |
| 21:37 |
第一回法的脳死判定終了。 |
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| 同7/8 |
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| 3:40 |
第二回法的脳死判定開始。 |
| 5:48 |
第二回法的脳死判定終了。死亡確認。 |
| 6:49 |
福岡県警実況見分開始。 |
| 7:21 |
実況見分終了。 |
| 16:10 |
臓器摘出手術開始。右肺(16:46)、心臓(17:58)、左肺(18:08)、肝臓(18:29)、左右腎臓(18:34) |
| 19:15 |
手術室退出 |
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(1)本件の臨床的脳死判定についての具体的検証
「臓器の移植に関する法律の運用に関する指針」(以下、「ガイドライン」という)によれば、脳死判定までの過程については、主治医等により臨床的に脳死と判断された後、主治医が、脳死判定対象者の家族の承諾を得て、臓器移植ネットワーク等の臓器あっせんにかかる連絡調整を行う者(以下、「コーディネーター」という)の派遣を臓器移植ネットワークに要請し、次に、派遣されたコーディネーターが家族に対して臓器移植の説明を行った上で、法的脳死判定を行うこと及び臓器を提供することを拒まない意思があるか否かについて家族に確認し、拒まない意思を有している場合にはじめて法に規定する脳死判定(法的脳死判定)を行うものとされている。
本件においては、事実経過を判断するための唯一の資料は「第9例目の脳死下での臓器提供事例に係る検証結果に関する報告書」(以下、「報告書」という)のみであるから、これによってその事実経過を認定する。
7月3日の午前9時55分に臨床的な脳死の判断がなされ、その後コーディネーターによる家族との間での話し合いが行われた後に、同日午後6時47分に法的脳死判定が開始されているものである。
なお、上記のとおり、法的脳死判定に入る前提として、主治医等による臨床的脳死判定が為されている必要がある。この臨床的脳死判定においては、ガイドラインの第4によれば、@深昏睡、A瞳孔が固定し、瞳孔径が左右とも4ミリメートル以上であること、B脳幹反射(対光反射、角膜反射、毛様脊椎反射、眼球頭反射、前庭反射、咽頭反射、咳反射)の消失、C平坦脳波、D自発呼吸の消失の5つの脳死判定基準のうち、D
「自発呼吸の消失」を除いたすべての内容を充たしている必要があるとされている。よって、本件についても、臨床的脳死判定の行われた7月3日午前9時55分の段階で、脳死判定基準のうち、@からCの内容はすべて充たしているべきであり、かつ、そのことを前提に法的脳死判定が開始されるべきであった。
ところが、本件においては、法的脳死判定開始後に、脳死判定医師の1名より、臨床的脳死判定に用いられた脳波記録について、アーチファクト(外的要因)の混入により平坦脳波の判定を困難にしている旨の意見が出され、このために法的脳死判定が中止された。
さらに、咳反射についても、臨床的脳死判定の段階で消失していなければならないはずであるにもかかわらず、その後、約9時間後に開始された法的脳死判定の際に、これに該当すると言いうる現象が顕れたということになる(なお、前述のとおり、当該法的脳死判定は、咳反射を調べた時点ではすでに中止されていたことから、咳反射が出現したのは実際には臨床的脳死判定の段階ということになる)。
以上のとおり、本件の脳死判定に至る過程を検討すれば、臨床的脳死判定の段階における咳反射の消失の確認及び平坦脳波の判断の2点について、主治医によって適切な判断がなされたか否かと言う点について、問題が存することが明らかである。
(2) 咳反射についての検討
そこで、本件において問題となっている点のうち、まず、臨床的脳死判定の段階における咳反射消失の判断が妥当であったか否かについて検討する。
咳反射とは、主に迷走神経が関与する反射であり、上記のとおり、脳死判定基準のうち、「脳幹反射の消失」を判定するための一要素である。脳幹反射については、これが残っていれば脳幹機能が残っていることを意味するものであり、脳幹反射の内容として挙げられているものが1つでも残っていれば脳死は否定できる(「脳死判定基準の補遺」による)ことから、その検査は極めて重要であるとされている。
よって、咳反射についても、脳死判定の時点でこれが残存していれば、脳死自体が否定されることになり、脳死判定においても極めて重要な位置を占めるものと評価できる。
そこで、本件について具体的に検討するに、本件のように―旦消失したと判断された咳反射の存在が、後になって認められたということは、臨床的脳死判定が杜撰であったか、または―旦消失した脳幹反射が時間をおいて復活した、という可能性が考えられるところである。
このうち、咳反射が時間をおいて復活することがあり得るか否かという点については、「報告書」においてもまったく触れられていないことであり、にわかに判断できることではない。仮に、―旦消失した咳反射が後になって復活したとすれば、脳幹反射の喪失判断のため一要素として、咳反射の喪失を挙げていること自体が明らかに不適切なことになり、このような脳死判定基準に従って脳死判定が行われたこと自体が人権侵害であると判断することも可能であるとも考えられるところであるが、しかしながら、―旦消失した咳反射が復活することがあるのか、ということについては、「60年度研究報告書」や「脳死判定基準の補遺」においてもまったく論じておらず、また、その他これについて言及した資料も存しない。従って、現時点では、脳死判定基準が誤りであったと断言することはできないものである。
そこで、本件の臨床的脳死判定、ことに咳反射消失の判断についてこれが適切になされたか、ということについて検討するに、「報告書」により、本件においては概ね次のような事実が認められる。すなわち、臨床的脳死判定の段階で、主治医により咳反射が消失したと判断されたが、その後9時間近くも経過した法的脳死判定の段階において、咳反射の検査方法(吸引用カテーテルを気管支壁に到達するまで挿入し、気管、気管支粘膜に機械的刺激を与える)を行ったところ、吸引した場合に微弱な胸郭の動きが見られた。これについては、2名の判定医のうち1名の医師(麻酔科医)より、咳反射の判断を慎重に再見すべきとの意見が出され、この判断はもう1名の判定医(神経内科医師)とは異なる判断内容であったが、結局本件の患者についてはこの時点で臨床的にも脳死ではないと判断された。上記の、咳反射の検査の際に現れる胸郭の動きは、その後3日以上続いたが、7月7日の午前9時15分の診察の際、胸郭の動きが消失したため、改めて臨床的脳死判定が開始された。
次いで、本件の咳反射消失の判断の適否について検討するに、上記の咳反射についての事実経過とは別に、本件においては、臨床的脳死判断の際に使用された脳波記録が、平坦脳波であると判定し得ないものであったにもかかわらず、法的脳死判定が開始されている事実が認められる。この事実に照らせば、7月3日の臨床的脳死判定の段階で、臓器移植を急ぐ余り、咳反射についても安易・杜撰な検査ないし判定が行われたものではないかという強い疑いが残るところである。
そればかりか、上記の事実経過から明らかなとおり、臨床的脳死判定から9時間も経過した段階でさえも、咳反射と言いうる現象が現れており、さらにその現象はその後3日以上続いたものであるから、臨床的脳死判定の際にも、同様の現象が現れていたことは優に想像し得るところである。そして、この現象については、それが咳反射といい得るか否かについては医師間で見解の相違が生じるような状況であったことが「報告書」によっても認められるが、このように、結果が微妙である場合については、脳死と判定してはならないことは検証会議も認めるところであり、そのような点に照らせば、本件においては、杜撰な判定がなされたというに留まらず、主治医によって、臨床的脳死判定の段階で、誤って咳反射が消失したと判断されたという疑いすら存すると言い得るところである。
しかしながら、本件の臨床的脳死判定の段階で、どのような検査が行われ、どのような判断基準によって咳反射が消失したと判断されたものかについては、誠に遺憾ながら相手方である福岡徳洲会病院による調査協力・資料提供がまったく得られていないため、明らかではなく、その判断過程についてこれ以上具体的な検証を行うことは難しい状況である。また、上記のとおり、7月3日の法的脳死判定開始後に、咳反射として指摘された現象は、脳死判定医のうち1名のみが咳反射であると判断し、これはもう1名の判定医の判断とは異なるものであったことが認められるものであり、医師よっても見解が分かれるものであることが認定できる。そして、ガイドラインによっても、臨床的脳死判定は主治医によって行われるとされており、複数の医師が関与することが必要とはされていないし、具体的に咳反射に該当する現象が指摘されているわけではなく、その判断についての基準が存するものではない以上、その適不適の問題は別として、臨床的脳死判定を行った主治医が、自己の見解に従って咳反射が消失したと判断したことについては、必ずしも誤りであったと言い切れるものではない。
従って、臨床的脳死判定を行った医師が、その時点で「咳反射の消失」と判断したことについては、上記のようにそれが杜撰・早計な判断であったと疑われる状況ではあるが、直ちに誤った判断が為されたものと断定することはできないものである。
(3) 平坦脳波についての検討
次に、本件の脳死判定についてのもう1つの問題点である、臨床的脳死判定の段階における平坦脳波についての判断が適切であったかどうかという点について検討する。
平坦脳波とは、60年度研究報告書によれば、大脳機能が喪失したか否かについて判断するための指標となるものであるところ、この検査方法は、「脳死判定基準の補遺」ないしは旧厚生省発行の「法的脳死判定マニュアル」(以下、「マニュアル」という)によれば、深昏睡、瞳孔の固定、脳幹反射の消失というすべての条件を満たした場合に行われるべきもので、最低4導出の同時記録を、30分間以上記録した場合に平坦脳波と認定すべきものとされている。
なお、脳波検出の際には、心電図、筋電図、振動、痛み刺激及び人の動き等の様々な理由により、脳波にアーチファクトが混入し、平坦脳波の判定を困難にさせる場合が見られる。従って、検査の際には、アーチファクトの混入を防止するため、検査室の条件(個室が望ましい等)、脳波計の条件(独立電源を用いる等)、被験者への準備(患者頭部を壁から離す等)、周辺機器の準備、室温、電極の装着、及び検査の条件(心電図の同時計測は必須等)など、検査の際の注意項目がマニュアルに詳細に記載されているものである。
そこで、本件における臨床的脳死判定における平坦脳波の判断について検討するに、平坦脳波については、「報告書」によれば、臨床的脳死判定の際に用いられた脳波は、これに説明困難な低振幅低周波のアーチファクト様の波形が混入していたため、当該脳波によっては、脳由来の波形の有無を判断することは困難であったと記されている。
従って、当該脳波記録によって、法的脳死の条件である「平坦脳波」である旨の判定を行うことは不可能であったものであり、上記のとおり、ガイドラインにおいて、臨床的脳死判定の際には、自発呼吸の喪失を除くすべての脳死判定基準を充足していることを要する、とされていることに照らせば、本件においては、ガイドライシの定める法的脳死判定開始の要件を充たしていなかったものと評価できるものである。
(4) 結論
これまで検討してきたように、本件においては、臨床的脳死判定の際の「咳反射の消失」という点については、必ずしも誤った判断がなされたとまでは断定できず、よって、これをもって人権侵害であるとは断定できないところではあるが、反面、「平坦脳波」はついては、臨床的脳死判定の段階において、相手方主治医が、平坦脳波であると判断し得ない脳波記録により、「平坦脳波」であるとの判断をしており、そのために、本来法的脳死判定を行い得ない状況であったにもかかわらず、法的脳死判定が開始されてしまったという事実が認められるものである。
ガイドラインにおいては、仮に臨床的に脳死と判断された場合においても、法的に脳死と判定される以前においては、主治医は、患者の医療に最善の努力を尽くすことが要求されているものの、実際のところ、臨床的に脳死と判定され、臓器移植を待つ患者に対して、その回復を図るために臨床的脳死判定以前と同様の真に最善の治療が行われるものとは期待し難く、本件においても、主治医による杜撰な臨床的脳死判定が行われた結果、当該患者に対する適切な治療が事実上打ち切られ、回復の機会を奪われたのではないかとの国民の疑念や不安を招くものと考えられる。
「脳死」とは、臓器の機能に障害がある者に対してその臓器の機能の回復又は付与させることを目的として、一定の法や施行規則の定める条件を充足した場合に限り、「人間の死」という状態を、通常認識されている状態よりも早期に認定するものと言うことができる。そして、脳死判断に引き続き、臓器移植が行われることが予定されていることから、病院ないし医師の側では、臓器移植を急ぐ余り、杜撰な脳死判定がなされるおそれも拭い去りがたいところであるので、臓器移植法・同法施行規則等は、このような状況下で誤った脳死判定がなされないようにするために、当時の最新の知見に基づいて脳死判定基準が定立され、そのための手順や検査方法を定めたものである。
したがって、脳死判定においては、所定の脳死判定の手順・検査方法をすべて遵守した上で、当該患者に脳死判定基準として定められた事項のすべてが充足していることが認められた場合に初めて脳死と判断し得るものである。そして、このような手続きをすべて遵守することそれ自体が、早すぎる脳死・作られる脳死を防止することに寄与し、併せて当該患者の救命・蘇生に向けた十分な医療行為を受ける権利を保障することに加え、上記の手続きがすべて遵守されることを前提にして自己の意思で臓器移植に合意した当該患者の生命についての自己決定権を保護するものであり、ひいては、脳死判定手続きの適正・公正さを担保し、国民の臓器移植に対する信頼を醸成するための不可欠の要素となるものである。
このように、脳死判定においては、そのための手続きを遵守することそれ自体が患者の人権保護に資するものであるにもかかわらず、本件においては、臨床的脳死判定の際に、「平坦脳波」について誤った判断がなされたために、本来法的脳死判定開始のための条件を欠いた状態であるにもかかわらず法的脳死判定が開始されている。よって、本件においては、脳死判定手続が遵守されたものとは到底言い難く、上記のとおり手続違背の事実自体が人権侵害行為となるものであるから、本件においても、患者の人権を侵害する行為が存したものと認定しうる。
(1)厚生労働大臣の義務と検証会議の位置づけ
臓器移植法は、脳死を人の死と認めるか否かについて、十分な社会的合意がないまま、本人及び家族の臓器提供意思がある場合にのみ脳死判定を行い、脳死を人の死と認めるという構成を採用している。
日弁連は、脳死状態を「人の死」とする社会的合意が未だ形成されていないという立場を前提として、以下の厳格な要件が認められることを条件に、脳死状態での臓器提供を真に望むものの意向を尊重し、脳死段階での臓器移植を認めるべきであるとしている。
(1)脳死の最も厳格な定義を前提とし、厳格な判定基準、判定方法によって脳死判定を行う
(2)脳死状態からの臓器移植は、ドナー本人の自己決定によってのみ行いうる。従ってドナーカード等、臓器提供に関するドナー本人の明確で自発的な意思を確認できる書面がある場合に限定する。
(3)脳死判定後でも脳死状態の患者があくまで人権の主体であることを基礎に個人の尊厳を最後まで保ちながら、死を迎えることができるよう留意する。
(4)摘出・移植を実施する医療施設は、日常診療においてもカルテの閲覧謄写権、患者の自己決定権など、患者の権利が十分に尊重されている施設に限定する。
臓器移植医療に対する信頼を得るためには、これらのうち、特に、患者の脳死が厳密に判定されたのか、患者の救命に最善の努力が尽くされたのかについて、第三者の検証が必要不可欠である。
このことは、臓器移植法3条が「国及び地方公共団体は、移植医療について国民の理解を深めるために必要な措置を講ずるよう努めなければならない」と定めていることや、厚生労働省の公衆衛生審議会の臓器移植専門委員会において、「臓器提供に関し、その手続きが適正に行われるかどうかという点について、第三者の立場から検証を行い、その結果を国民に公表することは、特に臓器移植にかかる国民の信頼を確保し、その定着を図る上で非常に重要であると考えておりまして、本委員会におきましても、その旨のご指摘を多数いただいているところであります。」とされていることからも明らかである(99.9.14第21回委員会議事録)。
厚生労働省は、厚生労働省設置法3条により、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進を図ることを任務とし、臓器移植法にかかる行政事務を司る。従って、厚生労働大臣は、その長として、同法3条の指摘する「移植医療について国民の理解を深めるために必要な措置を講ずるよう努め」る義務を負っている。
しかし、現時点において、法令上位置づけられた明確な第三者検証機関は存在しないため、第4例目まで、事実上公衆衛生審議会の臓器移植専門委員会で検討がなされ、その後、厚生大臣の私的諮問機関として、検証会議が設置され、常設機関ではないものの、事例が報告されるごとに検討が行われている(厚生労働省健康局疾病対策課臓器移植対策室長補佐永野氏の03.9.29回答)。
このように、本件検証会議は、厚生労働大臣が臓器移植法3条によって負う義務に基づいて設置されている機関であるから、厚生労働大臣が当該義務を尽くしているか否かは、当該検証会議において、「移植医療について国民の理解を深める」に十分な検証を行わせているか否かによって判断されるべきものである。
そこで、本件について検討を行った脳死下での臓器提供事例にかかる検証会議も、第三者検証機関として、臓器提供の手続きが適正に行われるかどうかを第三者の立場から検証するという使命を果たしていると言えるのかについて検討する。
(2)検証会議の検討結果
本件においては、検証会議報告書によれば、
「第1章 救命治療、法的脳死判定等の状況の検証結果
1.臨床的脳死の診断及び法に基づく脳死判定に関する評価
(2)臨床的な脳死の判断及び法に基づく脳死判定について
1)臨床的な脳死の判断」
の項において、7月3日9時55分の臨床的脳死診断後、法的脳死判定を開始したが、判定医から脳波記録と咳反射の検査を慎重に再検討すべきであるという意見が出されたことについて、「心電図と多少の交流アーチファクトに加えて説明困難な低振幅低周波のアーチファクト様の波形が混入しており脳由来の波形の有無を判定することは困難である。また、咳反射については、吸引した場合にのみ微弱な胸郭の動きが見られ、この微妙な動きは経過とともに心窩部から右胸郭に限局した。」として、いずれも、再検討を求める判定医の意見に客観的根拠が存在したこと、従って、臨床的脳死判断の際の平坦脳波の判定方法が誤っていたこと、及び、咳反射がその時点において存在していた可能性があることを認めている。
本件においては、以上の事実経過に関し、3つの問題点が指摘できる。
第1に、平坦脳波の測定に関する適正な手続保障が守られていない。脳波が平坦か否かが読みとれない判定方法が採られたからである。
第2に、咳反射に関し、適正な手続き保障が採られなかった可能性がある。その後再三にわたって確認された咳反射が第1回目の臨床的脳死判定において見落とされた可能性があるからである。
第3に、仮に咳反射が臨床的脳死判定においては実際に消失しており、それから8時間以上経過した法的脳死判定において復活したのであれば、臨床的脳死判定後、6時間経過した時点における法的脳死判定で脳死を確認すればよいという脳死判定の枠組みそのものの見直しが迫られる可能性があった。咳反射の復活がないことを確認するためには、6時間経過後ではなく、それ以上の時間を経過した上で法的脳死判定を行う必要が出てくるからである。
本来、臓器提供の手続きが適正に行われるかどうかを第三者の立場から検証する検証会議としては、脳死判定手続きが適正に行われていない事実に直面した以上、これについて不適切であることを明確に指摘した上で、少なくともその再発防止策を指摘すべきであった。また、脳死判定の枠組み全体に関する疑義が生じる事例に遭遇した場合には、その旨報告し、再検討を行うべきであった。
具体的には、第1に、平坦脳波の判定に関し、臓器の移植に関する法律、同施行規則、厚生省脳死判定基準(竹内基準)の補遺、厚生省
「法的脳死判定マニュアル」を遵守して脳死判定を行うよう勧告すべきであった。
しかるに、検証会議は、報告書の前記引用部分に続けて、「慎重を期して咳反射と思われる微妙な運動の消失確認を待って脳波を再検査し、脳波が平坦であること確認した後(7月7日)、上記の臨床的な脳死の診断を行ったのは妥当である。」と逆に積極的な評価を行っている。
また、第2に、咳反射に関し、見落としがあったという判断であれば、咳反射の判定方法について、なぜ見落としがあったかの原因を明らかにした上で、見落としがないよう周知徹底する必要があった。咳反射について見落としがなかったという判断であれば、臨床的脳死判定から8時間経過後に咳反射が復活したという事実から、法的脳死判定の開始時期を現行の6時間経過後ではなく、それ以上の間隔を置くよう脳死判定の枠組み自体の再検討を行うべきであった。
しかるに、同報告書は、臨床的脳死判定の際存在しないとされたのち、再び確認された咳反射に関し、その後消失の確認テストが再三にわたって行われたという、事後の事実のみを取り上げ、慎重であり妥当であったという積極的評価を下している。
これは、検証会議に課されている上記の検証義務を怠るものである。
厚生労働大臣は、臓器移植法3条の定める義務に基づいて設置した検証会議に十分な検証を尽くさせていない。上記報告書が報告させた後に検証を追完したという事跡も認められない。
これは、「移植医療について国民の理解を深めるため必要な措置を講ずる努力義務(法3条)」を怠ったものである。また、「(脳死)判定が臓器確保のために安易に行われるとの不信を生じないよう医療不信の解消及び医療倫理の確立に努める」臓器移植法制定時の参議院附帯決議の理念にも反する。
そもそも、本件判定以前の公衆衛生審議会の臓器移植専門委員会等における検討結果について、厚生省の作成したガイドラインに違反していても、それが重視されないなど、全体として評価が甘いという批判がなされている(2001.3、日弁連臓器移植法に関する意見書)。
厚生労働大臣が自ら設置した検証会議において、脳死判定における手続きの適正を的確に検討せず、その不適正さや、脳死判定基準自体の再検討の必要性について指摘せず、むしろ、「結果としては慎重に行われた」という後の経過だけを取り出した上での積極評価を下すのであれば、それは不適正な脳死判定を免罪し、正当化する機能しか果たさないのであり、脳死判定手続きの適正の確保に資さず、法が求める「移植医療について国民の理解を深める」ことに結びつかないことは言うまでもない。
よって、当会は、厚生労働大臣に対して、厚生労働大臣が、法の趣旨に従った十分な調査検討による検証を行うよう、要望書記載の要望を行うものである。
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