なんで生きている人間から臓器摘出が、倫理化、合法化されるのか。臓器移植法は、本人が「臓器摘出していい」と明確な意思表示をしている場合に限ってだけ、臓器摘出を合法化する。脳死者が死んでいることを誰も自信が無いことを、ドナーカードを媒介にして、それを儀式にして死体にせざるをえなかった。『「脳死」者は生きているんだけれども、もはや生きているに値しない。そのことが「脳死」であるから臓器を摘出してもよい』とされた。本人がそのような状態になった時に、臓器提供意思をあらかじめ表明していれば、臓器摘出が合法化、倫理化された。
人権思想の中心は自己決定権である、という主張があるが、能力とか権利を強調していく思想のなかで、まさに優生思想が肯定されてきている。自己に完結して自分で自分のことができるとか、その権利、能力があるという物の言い方、感じ方は問い直され続けるべきです。優生思想を問い、意思を文字、言葉で表現できる者もできない者も、共々に生きる観点から、生の自己決定権であれ死の自己決定権にしろ私は懐疑的であり否定的です。いずれにしてもアメリカの取材ではっきりしたことは、死の自己決定権は、決してQOL(quality
of life=生命の価値)が高いところでは認められていません。ここがポイントですが、誰でも自殺する権利があるとは認めていない。QOLが低いところに関してのみ、制限されたところで死ぬ権利を順番に認めていく組み合わせになっている。死ぬ権利が一人歩きしている。
死ぬ権利は、カレン・クィンラン事件(遷延性植物状態の患者、1976年ニュージャージー州最高裁は、人工呼吸器停止を認めた)で出てきた。ナンシー・ベス・クルーザン事件(1990年連邦最高裁判決)でも、代理判断、推定判断で「こんな状態では生きていたくないだろう」、と現在の本人の意思を判断した。意思表示ができない知的障害者の弟から、腎臓病の兄への生体腎臓摘出でも、推定判断で行なわれた。アメリカで国家によって強要される優生思想に替わって登場したのがQOLであり、QOLが実行される時には本人の「自己決定」という筋道をたどった。代理判断、推定判断で親に託された社会の判断=クィンランの判決文のなかに、介護の重荷や高額医療費支出を避けるなどのため「良識ある国民の意見でもあるだろう」=で両親は「死なす権利」を行使し、患者は「死ぬ義務」を実行させられてゆく。QOLを前提にして生きることを強調していくと、こんな話になる。
1997年に生命倫理学者ハードウィッグは、人々の「家族の愛、紐帯」ゆえに高額医療費支出を避けるため「死ぬ義務」があるとしたが、「家族の愛・・・」と言いながら家族個々人の持っている立場、能力、私有財産、社会貢献度などを比較考量させる。逃避的な決断としての死を考える。「死ぬ義務」論は「死の自己決定論」の亜型であり、リビングウィル「死の自己決定権」論は「死の義務権」論の偽装である。
ハードウィッグは「無能な人々に死ぬ義務は無い」という。彼は、そのような人々が本来どこで生きるべきかという問題を立てる時に、彼のイメージの中に「障害者用、高齢者用の施設が十分にある」ということが大前提にある。しかし行政は金を使わない、とすれば最後は死ぬ義務を実行することか、隔離収容施設に入るかのどちらかになる。彼は「邪魔者」排除の社会構造を前提にして、そこを問い直すことをしないで、家族内の問題として処理し、家族外の状況を隠蔽していくことに加担し、あるいは積極的に進めてゆく。その点で、生命倫理学者というのは個人の生き方を強調していますが、実に社会功利的な生産至上主義的な社会の在り方を前提にしたイデオローグとして、一つの大きな役割を果たしている、と思います。
結論は、死ぬ権利も死ぬ義務も、同じ穴のムジナということであります。家族の紐帯とか愛情という言い方は、あたかも共生、共に生きるという言い方になっていますけれども、結局のところ相手がいることによって幸せなのか否かという個々人の幸福像に話が入っていきます。そこは「若い人が活き活きと働く、活き活きと勉強する、老人に煩わされないで爽やかに生きる」という格好で幸福のイメージが描かれています。健常者中心の、あるいは若者中心の、あるいは生産効率中心の社会のなかで、創り出されてきたコンセプトであり主張であり、実践であると言わざるをえない。そういう構造があるからこそ、「脳死」臓器移植に反対する姿勢を、重ねて宣言したいと思います。