■エンリケ・オマール・シボリ(アルゼンチン・イタリア、FW・MF)
 アルゼンチンは天才を生む土壌だ。だがものごとが全て
そうであるように、常に別格というものが存在する。我々
がマラドーナに対して抱いた尊敬と畏怖は、歴史上4人の
選手によって共有されてきた。すなわちモレノ、ディステ
ファノ、マラドーナ、そしてシボリである。
 エンリケ・オマール・シボリは「カベソン(でか頭)」
という名で知られるが、これは彼が小柄な体格(170セ
ンチ74キロ)ながら、実際に巨大な頭をしていたことか
らきている。その容積がサッカーのためにあったのかどう
か定かでない。というのは、彼のプレーはさながら左足で
考えているようだったからだ。ボールはそこから吸い付い
たように離れず、簡単な命令だけですぐさまゴールへ飛ん
で行った。ドリブルとパスがまるで名人芸だったため、前
述のニックネーム以外にも「エル・グラン・スルド(偉大
な左足)」などと呼ばれたりしたものだ。
 シボリはリバープレートにデビューし、インサイドレフ
ト(5人並んだフォワードの左から2番目)として天才的
なプレーを見せた。並外れた得点力はヨーロッパにまで響
き渡った。56年、20歳で代表にデビューし、翌年のコ
パ・アメリカ優勝をきっかけに、父親の母国であるイタリ
アから声がかかった。世界最高の移籍金(当時)を払って
まで、彼を獲得しようとしたのはユベントスである。移民
先の国から選手を買い戻すブームはとっくに終わっていた
のだが、時代遅れのようなフロントの判断は、結果的に見
て全く正しいものだった。
 ベテランのジャンピエロ・ポニペルティ、ウェールズ人
のジョン・チャールズとともに、無敵のトライアングルを
形成したシボリは、攻撃の導火線に火をつける役目を果た
した。57ー58、59ー60、60ー61シーズンでス
クデットを獲得。コパ・イタリアも3度制したが、自身に
とりわけ思い出深いのは60年で、得点王に輝いて個人タ
イトルも手にした。ユーベに在籍した8シーズンの間、1
44点を稼いだので、彼への投資が安かったことは証明さ
れたわけだ。
 シボリはアルゼンチン代表として19試合に出場、9ゴ
ールを挙げているが、イタリアの暮らしの中で国籍を新た
に取得していた。何しろ半分イタリア人だから、手続きに
手間はかからなかった。このため、当時ヨーロッパ人にし
か門戸を開いていなかったバロンドールを、61年に受賞
している。のみならずアズーリ(イタリア代表)でもプレ
ーし、62年ワールドカップに参加した。9試合8得点。
当然、今のルールではこんな事は許されていない。
 65年、パラグアイ人の監督、エリベルト・エレラとそ
りが合わなくなると、シボリは活躍の場を求めてナポリへ
去った。同じくミランを追い出されたブラジル人のホセ・
アルタフィーニ(バレンチノ・マッツォーラにそっくりだ
った)とコンビを組むと、後のマラドーナがもたらしたよ
うな一種の熱狂を生んだ。ここで過ごした4シーズン、タ
イトルは獲得しなかったが、ミランに大差をつけられなが
らも2位となった67ー68シーズンが、ベストの成績と
して残った。
 34歳までプレーしたシボリは、役目を終えると母国に
戻っていった。ボカ出身の後輩がナポリの門を叩くのは、
彼が去ってからちょうど15年後のことであった。
 1935年10月2日生まれ。

 「カベソン」にして左足の達人、シボリは、シボレとい
う名前で登場する。世界で最も優秀な左足の価値、ぜひそ
の目で確かめてほしい。

 

 

 

 

■ジミー・グリーヴス(イングランド、CF)
 ジェームス・ピーター・グリーヴス(通称ジミー)は、
イングランド史上最も人気の高いセンター・フォワードの
一人だが、多くのライバルたちからはやや浮いた存在だ。
というのも、彼は競り負けないための筋力や、魅力的な長
身などとは無縁だったからである。173センチ66キロ
の小柄な体格、的確なポジショニング、すばしこい足、守
備のほころびを見逃さない眼力、正確なシュート。彼はこ
の才能を用いて、60年代に輝かしい功績を残した。
 ゴール前に林立する「木の幹」をすり抜けるように得点
を重ねたグリーヴスは、20歳を迎えるまでに競技場で1
00ゴールを決めた。余りに抜け目のない動き出しがしょ
っちゅうオフサイドと「誤診」されたので、それでもこれ
は(彼にしては)少ない方だった。「あんまり得点のこと
を考えるものだから、ゴールと聞くと胸が痛むくらいだ」
とは、グリーヴス本人のいいぐさだ。
 キャリアの序盤、彼はチェルシーで活躍した。58ー5
9シーズンに32ゴールを決め、18歳で記念すべき得点
王に輝いたが、より大きなクライマックスは2年後に控え
ていた。チェルシーのために41ゴールを挙げて、クラブ
の得点記録を塗り変えたのである。これで「点取り屋ジミ
ー」の名は欧州中に響き渡った。
 61年、この猛ラッシュが認められてACミランに買わ
れた時は、リーグ優勝を経験したものの、出場したのはた
った10試合だった。イタリアでの生活になじめなかった
せいだ。ただし、その適応性には傷がついたかもしれない
が、10試合で9ゴールを土産に残したため、ゴールスコ
アラーとしての名声を落とすことはなかった。実際イング
ランドに帰ってからも、嫌というほどゴールを量産したの
である。9シーズン在籍したトットナム・ホットスパーズ
で、4度得点王に輝き、2度のFAカップ優勝、1度の欧
州カップ・ウィナーズ・カップ優勝を手にしている。リー
グ優勝こそないが、立派な成績といえよう。
 グリーヴスは15年間のプロ生活のうち、1部リーグで
通算357点を記録した。これには5回のハットトリック
が含まれる。国際試合になると更に派手で、57試合で4
4得点。そのうちハットトリックは4回、4得点なら2回
もある。目下のところ、イングランド代表として彼より多
く稼いだのは、長い歴史の中でもボビー・チャールトンと
ゲリー・リネカーのたった二人だけである。
 グリーブスはゴールを生産することにかけては無敵だっ
た。それは才能のなせる業で、努力で克服できるような能
力ではなかった。しかしそんな彼も、何故かワールドカッ
プではほとんど力を発揮できずに終わった。1ゴールしか
決められなかった62年チリ大会もさることながら、イン
グランドが優勝した66年の地元大会では、エースとして
期待されながらノーゴール。あまつさえハーストにポジシ
ョンを明け渡した。フランス戦でのケガが原因だったが、
不調で結果を残せないのが凶と出た。対照的にハーストは
大活躍。20世紀では唯一となる決勝戦でのハットトリッ
クを達成して名を上げた。ただしこれには、有名な「疑惑
のゴール」も含まれている。
 グリーブスの引退は比較的早く、ウェストハムでユニフ
ォームに別れを告げたのは71年、まだ31歳だった。ス
トライカーにつきものの怪我が原因か?違った。選手寿命
を短くしたのはアルコールだった。実際この頃にはアル中
の症状が深刻化しており、誰もが彼の未来を危ぶんだ。だ
が彼は立ち直った。あまつさえ経験を生かして専門家にな
り、テレビに出て、同じ病気で悩む人々の希望の星になっ
た。かつてフィールド上でそうだったように、グリーブス
は、人生においても敗北することを決して潔しとはしなか
ったのだろう。
 1940年2月20日生まれ。

 最強のストライカー、グリーヴスは、グリーンスという
名前で登場する。ゴールは専門家に任せる方が利口という
ものだ。

 

 

■目次
■名選手伝説TOPへ ■序文
■第1回  シルビオ・ビオラ ■第2回  ピーター・シルトン
■第3回  ジジ ■第4回  カールハインツ・フェルスター
■第5回  ビンチェンツォ・シーフォ ■第6回  ウーベ・ゼーラー
■第7回  ジャッキー・チャールトン ■第8回  フリッツ・ワルター
■第9回  アルツール・フリーデンライヒ ■第10回 ルート・フリット
■第11回 アルベルト・スペンサー ■第12回 ベルント・シェスター
■第13回 ダンカン・エドワーズ ■第14回 サンドロ・マッツォーラ
■第15回 エンリケ・オマール・シボリ ■第16回 ジミー・グリーヴス
■第17回 エリック・ゲレツ ■第18回 ヘルムート・ラーン
■第19回 ニウトン・サントス ■第20回 マルコ・ファンバステン
■第21回 ホセ・マヌエル・モレノ ■第22回 イーゴリ・ベラノフ
■第23回 ハンス・クランクル ■第24回 ボビー・ムーア
■第25回 カールハインツ・シュネリンガー ■第26回 アデミール
■第27回 ジャン・マリー・パフ ■第28回 ギュンター・ネッツァー
■第29回 ガエタノ・シレア ■第30回 エウゼビオ
■第31回 マティアス・シンデラー ■第32回 ベルティ・フォクツ
■第33回 トスタン ■第34回 オレグ・ブロヒン
■第35回 ヨハン・ニースケンス ■第36回 レオニダス

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